小説をちゃんと読んでいなくて、なんかないかと図書館で手にしたのが、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』。これが実に面白くて驚く。しかしそれに負けず驚いたのは、この小説2000年に一度読んでいたことが発覚したこと。
良い小説を少しは読んできて、そのたびに人間や世界の多彩な様相を知り、へ〜えという思いは積み重なってきたと思う。しかしながら、そもそも人間とは何か・世界とは何かの、根本の解答を得たようには思えない。
各国を旅行し多彩な景色を眺め感動を積み重ねてきたからといって、たとえばそこから「地球は丸い」という根本の知識が必ず得られるとはかぎらない。その場合は、地球とは何かの大事なところが、もうひとつわからないまま、もどかしい旅が続くことになる。
人間とは何か、世界とは何か、この先もずっと、今ひとつわからないままになるのだろうか。たぶんそうだろう。小説とは何かもわからない。MMTが何かもわからないし、それどころか、財政赤字とは何か、貨幣とはそもそも何かも、どうしてもわからない。
話が飛んだが、『存在の耐えられない軽さ』。冒頭にはこんなことが書いてある。
《人間はなにを望むべきかをけっして知りえない。というのも、人間にはただひとつの人生しかないので、その人生を以前の様々な人生と比較することも、以後の様々な人生のなかで修正することもできないのだから。人生はいつも素描に似ているのだ。いや、「素描」でさえ正しい言葉だとは言えない。というのも、素描がつねになにかの端緒、絵画の下絵であるのに反して、おれたちの人生という素描はなんの端緒でもなく、絵画のない下絵なのだから。ただ一度かぎりの人生しか生きないとは、まったく生きないも同然なのだ》(西永良成 訳)
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