東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★夜の果てへの旅/セリーヌ

  夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180801/p1 から続く。


ずいぶん日が経ったが、セリーヌ『夜の果てへの旅』は読み終えた。記憶が流れて消えていかぬよう、少し書き留めておきたい。


=以下はすべて下巻について=


上巻は、第一次大戦の前線、その銃後のパリ、アフリカの植民地(コンゴ)、アメリカ(ニューヨークとデトロイト)と移動していき、人物たちも転じていくが、下巻は、パリの場末で開業して以降一貫したストーリーの流れで展開する。人物もわりと一貫している。

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《結局のところ、医者を本気でやっていくために僕に欠けていたのは厚かましさだ》

《僕は訪れてくる不幸に対して自分にまったく罪がないと感じることのできない性分だったからだ》p.69

フェルディナンの内心の気の弱さや性根の悪くなさが徐々に吐露されるのが面白い(わりと他人事におもえない)

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《そんな芝居を続けてだんだん年をとるうちに、しだいに醜くひねくれだし、いつしか自分の悩みを、敗残を隠しきれず、ついには顔全体にそいつを、きたならしい皺面を浮かべだす(…)》p.90

文庫本に掲載されているセリーヌの顔がここに重なる?

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《観念が相手なら、勝ち目はある、なんとかなる。ところが衣装をまとった人間の威光には太刀打ちできない場合が多い。衣装いっぱいに忌まわしい匂いを、秘密をしまい込んでいるからだ》p.159

訪問してきた地元の司祭の男について。いやな感じがよく伝わって印象的な男だった。『1Q84』の牛河的(いや、牛河は悪人ではなかったはずだが)

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フェルディナンがリア充だという証拠は、やはり頻発する。

《食いぶちにありついた気安さから、さっそく僕はこの若い屈託のないお仲間と近づきになることを心がけた》

《タニアが部屋で僕を揺り起こした、僕たちはあげくの果てにそこへしけ込んでしまったのだ。朝の十時だった》p.208

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《急いで通り抜けねば、道に迷いやすい、まずあたりの陰気さとあまりの冷淡さに戸惑わされる。すこしでも金銭があればさっそくタクシーを拾って逃げ出してしまいたいくらい、淋しいところだ》p.210

ここがおもしろいと思ったのは、旅行先で、これくらい、ひどい場所もあったかなと、いうことを思ったから。そもそも、ある界隈のイメージをどう描写するかというのは、なかなか興味深い。

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《が、入れ歯のことで、僕とアンルイユの寡婦とが、永久に仲違いしたことには変わりない》p.218

このエピソードは、笑えるほどおぞましい。

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フェルディナンは、トゥールーズに、ロバンソンを訪ねていくが、ロバンソンが婚約している女と、ミイラの安置所で、性交する。2度も。

さらに、トゥールーズでは、フェルディナンは、最後、アンルイユ婆さんがミイラ室の石段から転がり落ちて頭を打って瀕死の状態だと聞いて、ここぞとばかりに逃げ出す(p.274) このひどいあっけなさは、作家の自虐、というか、思い当たるものがあるのかもしれない。

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バリトン親爺のところで知り合った狂人たちを一人残らず思い返してみると、戦争と病気という、この二つの果てしない悪夢を除いて、僕たちの本性の真実の現われが他にありうるかどうか、僕は疑問に思わざるを得ないのだ》p.280

この小説は戦争と病気(精神の病気か)がテーマだとも言える。

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フェルディナンは、だんだん苦悩する強烈さを失い、諦観のなかに枯れていくような感じになっていく。バリトンのところに定職、定住の場を得るかたちになってから。

《それに僕のほうはとっくの昔に、自尊心は一切合切放棄してしまっていた。こういう感情は常に僕の収入に比して千倍も費用がかかりすぎるように思えたからだ。そいつをきっぱり思いきってせいせいしていたところだ》p.298

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物語は、ロバンソンの婚約者だったマドロンがトゥルーズからパリまで出てきてしまう、といった展開に。そして、フェルディナンはマドロンを平手打ちするような行いに出る。(これ自体は特別罪悪という意味合いは、当時では、なかったのだろうか?)

そのあと、病院で雇ったスロバキア出身の若い女性ソフィの性的アピールの描写に、異様に力が入る。

《がそれにしてもなんという若々しさだ! なんという溌剌さ! なんという肉づき! たまらない魅力! ぴちぴちして! ひきしまって! 驚くばかり!》

いやはやという感じ…

しかも、あろうことか、フェルディナンは、このソフィに、ロバンソンとマドロンを含めてどうにもならない現在の局面をどう打開したよいか、マジに相談する。フェルディナンも小説も場当たり的すぎないか?

しかも、ソフィは大げさに意見し具体的な忠告まで与える。それによって、フェルディナン、ソフィ、ロバンソン、マドロンの4人は、パリに縁日の日に出かけていくことになる。それがもとで悲劇が起こって、小説は終わる。

そんなわけで、小説の最後の最後は、なんと痴話喧嘩だ。

まあこの小説は、なし崩しに終わる以外、終りようもないのか。(そもそも創作というものがみな宿命的に抱えざるをえないことなのかもしれないが)

その、最後に展開されるマドロンとロバンソンの痴話喧嘩が以下。はげしく下品な言葉で罵り合う。

《二人とも言ったらいい、変えたいんだって……白状するがいい!……新しいのが欲しいんだって! 尻軽女が……さらのがほしいんだろう? 変態! 助平! どうして言いわけするのさ?……あんたたちは飽きがきた、それだけのことさ! 自分の助平根性を認める勇気もないのさ! 恐ろしいのさ、自分の助平さかげんが!》p.401

《おれはただ、いいか、もうなにもかも、いやけがさして、ぞっとするんだ! てめえにかぎったことじゃない!……なにもかもさ!……とりわけ愛情ってやつがね!……てめえの愛情も、ほかの奴らの愛情も……てめえにいちゃつかれるたんびにおれがどんな気分になるか言ってやろうか? 雪隠でおまんこしてるみてえな気持ちさ! これでわかったかい、おれの言う意味が?》

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エンディング。

ロバンソンの死に寄り添い、フェルディナンは一つの結論(自分の人生の結末)のようなものを知るに到る。
 
《こんなおりには、こっちがこれほど微力で無情な人間になってしまったことが、いささか気がとがめる。他人の死にぎわに役立つものはまるで何ひとつ持ち合わせてはいないのだ。いまではもうほとんど自分の中に、日々の暮らし、安楽なくらし、ただ自分だけの暮らしに役立つものしか持ち合わせていない、ひどいもんだ》p.406

ロバンソンは《やきもきしていた……死んで行くために、安心して死んでいく支えに、きっと、僕よりもはるかに偉大な、もう一人のフェルディナンをさがし求めていたのにちがいない》

《僕は死神に太刀打ちできるほど偉大な人間ではなかった。はるかにちっぽけな人間だった。僕には偉大な人間的理念が欠けていた》

《僕もまた意地悪だった、人間はみんな意地悪だ……それ以外のものは、人生の途中のどっかへ消えちまったんだ、死にぎわの人間のそばでまだ使い物になる作り顔、それすら僕はなくしてしまっていた、僕はまさしく途中ですべてをなくしてしまっていたのだ、くたばるために必要なものを何ひとつ、悪意以外は何ひとつ、見つけ出せなかった》

死ぬのがいやなのは、こうした悔恨にさらされることが嫌なのかもしれない。(この小説、ときおり現在の自分の状況にひきつけて考えながら読むところがあったが、ここで思ったこと)

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そして最後のロバンソンの感慨。

《自分に戻るのだ。僕の放浪、そいつはもうおしまいだった。ほかの奴らの番だ!……世界はもう一度閉ざされてしまったのだ! 果てまで来ちまったのだ、僕たちは! 縁日といっしょだ!》

《そのくせ僕は人生でロバンソンほど遠くまで行きついてもいなかったのだ!……結局、成功しなかったのだ。奴が痛めつけられる目的で身につけたような、頑としてゆるがぬ一つの思想を、僕はついに物にすることができなかったのだ》

《僕がいつか、ロバンソンみたいに、堂々とくたばるために必要なもの、そいつは僕の力なんだ。泣き面でむだにしている暇などないのだ。仕事だ! そう自分に呼びかけた。が効き目はなかった》p.416

自分の仕事がどこか他人の仕事のように思うことばかりなのだが、このままだと、自分の人生と自分の死も、他人の人生と他人の死のように思いながら死んでいくことに、なってしまうのかもしれない。


=以下は末尾の「解説」から=

以下のまとめは、この小説が投げかけるものを、とてもうまく要約していると思う。

《医師としての日常体験を通じて、セリーヌ=デトゥシュ(*本名)は、死と人間の醜悪さの観念にたえず取りつかれていた。さらに第一次大戦の戦場で蒙った負傷は、不眠と、頭痛と、絶え間ない耳鳴りとなって最後まで彼を悩ませた。いっぽう、幼児からそのあいだにかこまれて育ったプチ・ブルと庶民の心情をとおして、彼らのシニシズム、深い同胞不信、救いがたいエゴイズムをいやというほど見せつけられたことも、セリーヌの文学の暗さを理解するうえに見逃してはならない重要な要素である。この体験をセリーヌは作品の中で普遍化したといっていい。そしてこの実感的人間観の範囲からはみ出した個人の存在を彼は認めない。従来の文学は人間の卑劣さを回避し、人間性を美化してきた。彼の経験こそ真実であり、それを物語るのが作家としての使命である、とセリーヌは固く信じて揺るがない。彼の創作目的は、人間の真実を伝えること、すなわち、〈黒く塗りたくること、自分をも黒く塗りたくること〉である。社会は、人間は変わらない。しかし人間の汚なさについて全真実が語られたとき、われわれはいまより幾分か自由になれるだろう》

ちなみに、この小説、当時は社会主義の小説だと思われたという。信じられない。しかしトロツキーはそうではないことを見ぬいたという。解説者=訳者の生田耕作はこう書いている。

セリーヌにとっては、世界を変革することがねらいではない、かといってそれを現状のままで維持することでもない。彼に言わせれば、どちらの方向へむかおうが、世界はいまより良くも悪くもなり得ない。それはつねに醜く、つなに生きるに値しない。おまけに一般の左翼作家と異なり、セリーヌの作品の絶望と反逆は、理論的に習得したイデオロギーというよりも、個人的体験によって色濃く染めぬかれている》