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【2019 輪廻転生】

★ドゥルーズ 解けない問いを生きる/檜垣立哉(哲学のエッセンスシリーズ)

 ドゥルーズ―解けない問いを生きる (シリーズ・哲学のエッセンス)


「ドゥ」を出すには「doxu」と打てばよいことを、すぐ思い出せる程度には、私はドゥルーズのことが昔からずっと気になっている。しかし実際にはほぼ知らない。そこで、今さらだが、ぱっと思い立ち、檜垣立哉による入門書『ドゥルーズ』を開いた。NHK出版「哲学のエッセンス」シリーズの薄い1冊。

これが実に、ドゥルーズの真髄を丁寧に実感させてくれる入門書だと思われる。

ドゥルーズの考え方を一言でいえば「生成」だろうか。ものごとを、常に変化し新たな姿を現していく そんな流れとして捉えた、ということになろう。――これくらいのことは、ドゥルーズの本をまったく読まなくても、ドゥルーズについての本やコメントをさんざん目にしていれば、誰でも言える。

しかし、その生成や流れといったものを、個人的な身近な例として「たぶんこうかな」と強く確信できるようになる。この入門書はそんな一冊だ。私は、生成とは「旅行がまさにそうだね」「小説もそれに当てはまるか」「というか人生のことだよ」と、とても薄いこの本に、桁外れに厚く感動している。

流れということを、もっとも簡単に実感させるのに、同書は「メロディー」を挙げているが、たしかにそれは良い例だ。メロディーはある瞬間においては聞こえてこない。一定の時間の流れを体験するその全体においてしか捉えられない。さらにそれに関連し「俯瞰」というキーワードが示される。

この俯瞰ということの説明を読んで、私としては、たとえば地震津波というものを、地球のどこかから地球のどこかまで四方八方どんどんどんどん伝わっていく、その全体の像として捉えることなんじゃないか、と受けとめた。

というのも、このメロディーということと、津波が伝わる全体像ということの、両方を、以前「人工知能はこの世界の事象をどのように捉えるのか」という問いで考えたことがあったからだ(以下)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20170311/p1

ただ同書では、メロディーが流れることと、いわば津波を俯瞰することを、ドゥルーズが考える生成のありようの似たような例としてみているようなので、私の理解はかなり大雑把なのだが、それでも、ドゥルーズの考えを私の考えのどこかに打ち込んでおくアンカーを見つけられたのは、何より有益だ。

さて、ドゥルーズは応用編の拡散した文章ばかりが大いに流布してしまったものの、檜垣は、実はドゥルーズには原理編の書があると言い(代表が『差異と反復』)、その核心部を用語とともに整理している。その中で示される1つが、ドゥルーズは流れを「可能性ではなく潜在性」と見ている、という点。

なんかカリカリ説明していくのが負担になってきたので、雑にまとめてしまうと、つまりこういうことだろう―― 

たとえば、最近アメリカや世界であれこれ起こっている出来事は、すべてトランプ大統領以後の流れの中で生起しているとしても、だからといって、トランプ大統領誕生の時点で、そうしたいわば種の中に、その後のすべての展開の可能性があった、というふうに見るのは「間違い」だ、ということ。

ドゥルーズが「可能性」ではなく「潜在性」と言うのは、生成変化は一連の流れにおいて現れるが、そのつど予定されない予測できないものとして現れる、ということだろう。さらに面白いのは、新しく現れた姿(たとえば世界情勢の現在)は、生成の仕組み自体の現れというわけでもない、という指摘。

さらに、こうした生成する流れの様相全体を、「否定的」ではなく「肯定的」にみるところが、ドゥルーズの真骨頂と言えるようだ。この入門書の巻頭には次の文言が引いてある。

《何に対してであれ反対する書物は、いかなるものも重要ではない。何か新しいものに〈賛成する〉書物だけが大切である。それが新しいものを生みだすことができる》(ドゥルーズ構造主義はなぜそう呼ばれるのか」) いいね!☝

この賛成・肯定という点、じつに共感できると思ったのだ。これがドゥルーズなのかとなおさら感慨深かった。なんというか、私も自分や他人に社会に政治にいつも文句ばかり言いながら、けっきょくは肯定的な発想や書物や人物だけを希求しているのかも、と、そんな気がしてきた。

しかしながら。ドゥルーズは、予想もできない新しい姿が次々と現れて刻々と転じていくばかりのこの世界を、まるごと肯定しようというのだから、考えてみれば「偶然の変転に身を委ねるしかない」ということでもあると、私は思った。肯定とは諦観だ。ある意味「諦めろ」ということかもしれない。

そう思ったところで、同書巻末のドゥルーズ小伝にある自殺のくだりを読んで見よう。

《最後にはアパルトマンの窓から飛び降りたが、老年期の、といってもいい自殺には、自死という事態が含むけたたましさのようなものは感じられない。あくまでも静かに消え去っていくこと。しかしながら敗北ですらないこと。それについて過剰に語るべきではない静謐な雰囲気。そればかりが感じられる》

ドゥルーズというと波乱に満ちて騒々しいイメージだったけれど、案外、ひっそり黙って思索と記述にいそしんだ人だったのか。いいね!

ところで、フッサールが自己意識を世界における特権的なものとして見出したのに対し、ドゥルーズはそれに異を唱えた。生成するこの世界を「定点のないもの」としてとらえたのだという。

そして、デリダドゥルーズはともにフッサールを批判したが、デリダは「定点がないこと」を否定的にとらえたのに対し、ドゥルーズは肯定的にとらえたのだと、檜垣は述べる。

《だがドゥルーズは、現在という定点を失い、流れのなかに内在していく事情を、そっくりそのまま肯定的に描いていく。定点がないことによって、流れの潜在性に溢れるように入り込むことを、まったくポジティヴなものとして捉えるのである》

ドゥルーズの肯定の理由と立場がひとつ具体的になった。

ここで私はもう一度、津波のたとえを思い返した。津波を俯瞰するとは、人工知能になることではないのだろう。津波を体験として把握しつつ、しかし1つの場所や時間における1つの姿ではなく、常に多方向に姿を変え続ける全体の流れとして眺める、ということなのだろう。あたかもメロディーのごとく。

もう1つ、むかし自分が考えたことを思い出した(以下)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140405/p1「私の人生はサイコロを振らない?」

…いや、強引に並べすぎた。ドゥルーズの『差異と反復』とかちょっと読んでみることにしよう。

そうだ、もう1つ引用。デリダドゥルーズの比較(以下)

ドゥルーズは、世界は解けないものであるために、新しいものの産出が肯定的に語られる。そこでは解けないために、予見不可能な生成の力が奔放に語り尽くされていく。デリダでは、解けないことは一種の迷宮を形成する。この世界は決定的な真理に到りえないために、そこでは際限のない彷徨が描かれる》《私にはこの両方の方向性は、ヨーロッパ的な思考の二つの究極的なモデルではないかとすらおもえる》