東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★夜の果てへの旅/セリーヌ

 夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)


気が向いて小説を二つ読み始めた。セリーヌ『夜の果てへの旅』と大江健三郎『取り替え子』。どちらも初めての本。ネットからなんとしてでも離れようという動機が隠れていたかもしれない。


大江健三郎『取り替え子』についてはこちらへ


セリーヌ『夜の果てへの旅』は100%呪詛の言葉が詰め込まれている(読んだ人は誰でもそれを言うだろう)。あえて探しても希望や賞賛はひとつも見つからない。鮮烈だが余計な思案をしなくてよい読書だとも言える。具体的な舞台は第一次大戦。前線と銃後に展開する腐敗と欺瞞のバラエティショー。

セリーヌは1894年生まれで開戦の1914年には20歳。小説の主人公も20歳。「ばかな真似はよせ……フェルディナン!」と連れにたしなめながら、自滅的に志願兵の列に加わるのが最初の場面。『気狂いピエロ』もフェルディナンだったなと思い出す。

先日は私の20歳の愚行録を読んだことが、うっすら重ならなくもない。

《青春の大部分は不手ぎわのうちに空費されるものだ》(中公文庫 p.131 生田耕作訳)。

そのとおり。ただし、不手ぎわは同等であっても、私と違いフェルディナンには、偽善的な求道心や微温的な調子のよさは皆無だ。

あとフェルディナンは、戦時中にもかかわらず、かなりリア充。「ちょっと納得いかん」(20歳の私がぼやいている)


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8月17日(追記)

『夜の果てへの旅』少しずつだが飽きずに読んでいる(意外)。上巻がまもなく終わる。戦地の壮絶シーンはわりとあっけなく途切れ、むしろ国民の戦時熱狂と入院先での格闘がみっちり綴られる。かと思えば、急にフランス植民地のコンゴに生き延びるすべを求めて旅立つ。

コンゴの密林での原住民を交えた日々は、戦場を超えて地獄だ。いや「地獄の黙示録」と言いたい。その熱暑の描写がまた迫真的で、ちょうど読んでいたころの東京の暑さをもって味わうにふさわしかった。文章は緊張感を常に保ってゆるみがなく、しかも読みやすい(翻訳もよいのかもしれない)

そうかと思えば、フェルディナンはガレー船の漕ぎ手にまでなり(ジャン・バルジャンか…)、さらにはニューヨークにまで渡ってしまう。この小説は旅をする物語でもあるのだ。20世紀に世界史に踊り出たアメリカ合衆国。マンハッタンには高層ビルと映画館。フェルディナンが吸い込まれるように入っていった館では、いったい何の映画がかかっていたんだろう?


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8月25日(追記)

セリーヌ『夜の果てへの旅』上巻の終盤。

フェルディナンはニューヨークからすぐまた移動。《そうつらくはない、払いのいい、ちょっとした職がいくらでも見つかる》というデトロイトへ。フォード社の自動車工になるのだ。『舞踏会へ向かう三人の農夫』がなんとなく重なってくる。

20世紀初めのアメリカなのでピンチョン『逆光』も重なってくる。『逆光』には、第一次大戦に縁の深いセルビアの皇太子がシカゴ万博(1893年)を見に来た様子も描かれていた。

そしてまたフェルディナンは、あっけなくフランスに戻ることになるようだ。めまぐるしい旅。しかしどこに行こうとも、心も体もズタズタでやけくその状況と心情が繰り返され、しかもみごとな筆致で記述される。やっぱり面白い小説だ。

――というわけで、そう遠くない20世紀の初め、フランスやアメリカがどんなふうで、そこにいる人がどんなふうな気持ちでいたのか、こうした小説によって、徐々に知れてくるわけだが、さてでは、そのころ日本と日本の人はどんなかんじだったのか。もちろん気になる。

そしてふと、そうだ『日本文学盛衰史』を読み返すといいかと思い立つ。ちょうどその続編『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』が家に届いたところだが。

ところで、セリーヌは1894年生まれで、1914年の第一次大戦から始まる『夜の果てへの旅』は、私が生きてきた現代と、どうにか地続きであるという実感をもつのだが、先日は『レ・ミゼラブル』関連本を読んでおり、同じフランスでも革命そしてナポレオンの後にさらに変動を繰り返した19世紀前半が舞台だが、小説の発表は1862年とのことで、セリーヌが生まれた1894年はそう遠くないのだなと思うと、感慨深い。

フランス革命やナポレオンなんてすっかり世界史のお話だとしか思っていない。しかし、私の時代がセリーヌの時代とそう遠くないように、セリーヌの時代とレ・ミゼラブルの時代もそう遠くないのであり、そしたら、私の時代とフランス革命の時代はやっぱり地続きなのかもしれないと、初めて思ったのだ。

現在を本当に生きている私がいるように、第一次大戦の時代のフランスやアメリカを本当に生きた人がいたし、おまけにフランス革命やナポレオンや直後の動乱期を本当に生きた人がいた。そんな当たり前のことが、マジに本当なのだとおもうと、ちょっと不思議でならない。

さて、レ・ミゼラブル関連本とは鹿島茂『新装版 「レ・ミゼラブル」百六景』 (文春文庫) だ。映画『レ・ミゼラブル』はここぞというところで歌を歌い出すのがどうもなじめず完全には観ていないし、原作も読んだことがないのだが、この本は往時の木版画による挿絵が入っており興味深く読んだ。
 
 新装版 「レ・ミゼラブル」百六景 (文春文庫)


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8月30日(追記)

セリーヌ『夜の果てへの旅』は、下巻に入ると、フェルディナンはパリの場末で医師として食いつないでいる。話は一転し、巷の人々のしみったれた生活と性分が自虐的に罵られるので、意表をつかれ、笑う。義母を養老院に送ってやろうかとか。戦場や熱帯の崇高な地獄から、吝嗇と悪巧みの卑小な地獄へ。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20181031/p1へ続く。