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【2019 輪廻転生】

★遺言。/養老孟司(新潮新書) 

 遺言。 (新潮新書)

リンゴであれイヌであれ、個物はすべてどこかが違っているが、それでもそれを同じ「リンゴ」「イヌ」と捉えるのは、言葉があってこそであり、人間だけがやること。他の動物には言葉がなく、したがって「同じ」もないはずだ、と養老さんは考える。

そして、ものごとを<「同じ」とみるか/「違う」とみるか>の二項は、<意味/感覚>の二項であり、また<理論/現実>の二項でもある、とった構図で考えている。

その上で、たとえば《意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつの間にか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。その極端な例が神奈川県相模原市で生じた十九人殺害事件であろう》《山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない》と述べる。

ただし、だからといって養老さんは、「感覚・現実・違い」が客観的であり、「意味・理論・同じ」が主観的である、とみているわけではない。ここは大きなポイントだろう。養老さんは、現実も理論もどちらも頭(脳)の中にあると考える。

したがって、ものごとの「意味・理論」が「感覚・現実」に合うかどうかを実験するのが科学という営みだろうと言いつつも、現実が客観的だからエライと考えているわけではない。そうではなくて《科学とは、我々の内部での感覚所与と意識との乖離を調整する行為としてとらえることができる》。

養老さんは科学論文を書く人でも哲学論文を書く人でもないのだろうが、しかしながら、科学や哲学をめぐる私たち一般人の素朴な疑問そしておそらく原理的な疑問を、一般人と同じく素朴に原理的に見つめているのだ、今になってもまったくそうなのだと、感じられ、強く勇気づけられる。

つまり、私もなんとなくこの本にあるようなことをわりといつもツイートとかしてるんじゃないかと思うのだ。それは、養老さんの思索が私のツイートなみに低レベルと言いたいのではなく、私のツイートもときには養老さんの思索なみに高レベルだと言いたいのだ!

さてさて、その、ものごとを「同じ」と括るのは、ものごとを抽象化することであり、その抽象化の階層はどんどん上っていくものであるが、その最も上には一神教の神があるのだろう、といった見方が出てくる! そこはまた新たに「なるほど〜おもしろい〜」と感動の深いため息がもれた。

そして、こうした「同じ」「意味」「理論」が「違い」「感覚」「現実」を凌駕している人間や社会の実状を、それすなわち「都市化」「脳化」なのであると、養老先生の思索の原点につなげていく。

脳化・都市化への違和感こそ、養老さんは昔も今も変わらずことあるごとに指摘してきたのだと改めて思う。養老さんは1937年生まれだが、見聞きしてきたあらゆる激変の源を「都市化」に関連づけることと大いに関係するだろう。たとえば私などが「すべてはインターネットのせい」と言うのに似て。

1937年くらいの生まれの方々はもう本当にお年を召している。すでに亡くなった方も多い。赤瀬川原平さんも1937年生まれだった。ちなみにその10年くらい後に生まれたのが団塊の世代で、こちらの方々は、じつにたくさん、たくさん、たくさん、たくさん、たくさん、たくさん…(もうたくさん)

その養老さんの『遺言。』といわれると、読まないわけにはいかなかった。ほぼ25年ぶりの書き下ろしなのだという。ほかは語ったものを編集者がまとめた本ばかりだったとのこと。『人間科学』もそうなんだろうか(謎→『ちくま』の連載をまとめたそう)

なんでも夫婦で豪華客船の旅をした半月間、どこにも行けずすることもないので、この本を書いたのだという。旅の不自由は人につい物思いや書き物にふけらせる。養老先生も凡人も同じなのだと感慨深い。

もう12月だし、遺言でも書こうか、いや違った、今年読んだ本の感想でも少し書いていこうと思い立った次第。