東京永久観光

【2019 輪廻転生】

神社、グローバルとは無縁



連休は御岳山(東京都青梅市)に登ってきた。古くから山岳信仰が続いてきた場所で、山の上には神主だけが住むという集落がありそこが宿もやっている。不思議な空間だった。日本の神社とか神話とか、戦後に否定的に捉えられたせいだろうが、ぼんやりとしか知っていないのは、もどかしい気もする。

というのも、このあいだラカンの解説本(斎藤環)を読んで、エディプスなどの西洋の神話というのは、ワールドワイドに教養や精神の支柱になっているのだなあと思ったからだ。

日本の神様も古代ギリシャやヒンズーなどと同じ多神教で、仏教とも混合していてよけい雑多で、間抜けなところや人間ぽいところもあるようで、なかなか面白いのではないか。御岳山の神社にも、いろんな名前の神様がそれぞれ社をもっている。

日本の神話や神社なんて、普段はすっかり忘れているけれど、今なお人々の精神をいろいろ彩ってはいると思う。ただ一方、戦前の教育や思想との関わりも知っておいたほうがよいのだろう。ちなみに、御岳山の神社は、近ごろ話題の神社本庁には所属していないそうだ(Wikipediaによる)。

グローバリズムというのは国際社会を隅々までドルと英語と聖書とギリシャ神話で一元化したいのかもしれない。それに違和感をおぼえる人がみなナショナリストというわけではないだろう。そのときコミュニタリアニズム共同体主義)の政治思想はたぶん参考になる。


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(5.16)
私はたぶんコミュニタリアンの判別テストで高得点だとおもうのだが、天皇制はどうもそれとは違っていて、だから今宵の吉報もなんだか他人事にしか感じられない。(なお「コミュニタリアンの判別テスト」は検索しても出てきません)


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(8.20)
『ゲンロン0』を再読しているが、東浩紀によれば、コミュニタリアニズムはグローバリゼーションが進んだ時代においてリベラリズムがもはや困難であることをただ示しているだけであり、グローバリゼーションが進んだ時代における社会や政治の新しい原理を示しているわけではない。

そうすると、私がコミュニタリアニズムに惹かれるのは、ただナショナリズムへの郷愁でしかないのかもしれない。

なお東浩紀は、リバタリアニズムについては、コミュニタリアニズムとは違い、リベラリズムに対する批判にとどまらない社会や政治の新しい原理への可能性を、感じ取っている。