いろいろあって『イデオロギーの崇高な対象』(スラヴォイ・ジジェク)を読むことにした。
それと前後し、ジジェクがトランプを支持したとの報が伝わってきて、へえそうかと思えば、そのジジェクをチョムスキーが批判したとの報も伝わってきて、なるほどそうかと、なかなかタイムリーなことである。
まだ「はじめに」と「解説」しか読んでいないが、この本はラカンの解読を通じてヘーゲルを再評価する論考らしい。
それで思うのは、21世紀を生きる私としては、トランプのことをある程度は知ってないとどうにもならんだろうが、それと同じく、西洋の色に染められた近代の世界を生きる私としては、ヘーゲルのこともある程度は知ってないとどうにもならんのだろう、ということ。
ヘーゲルは、私なりの理解によれば、「こうだろう」「いやそうじゃない」「なるほどじゃあこうか」「いや〜そうでもない」「え、あ、なるほど、つまりこうだ」「いや〜」(弁証法)ということを繰り返して人間や国家は完全になると主張した、と一般には思われている。
ところがジジェクは―― 実はヘーゲルは、そう繰り返すことで、人間や国家がけっして完全になることはないということこそを主張した、と考えているようだ。
なるほど、面白い!
《ヘーゲルの中に見出されるのは、差異と偶然に対する史上最強の肯定である》(同書「はじめに」より)
ところで、解説は大澤真幸が書いていて、これが非常にわかりやすい。
どう解説しているかというと、「この本はとてもわかりやすいカント、ヘーゲル、マルクスの解説です。私がここでわざわざ解説するのはまったく無駄なほど、わかりやすい解説です」(主旨)だ。
ヘーゲルの欠陥をマルクスが修繕したとされるが、大澤によれば、同書はヘーゲルを規準にしてマルクスを読み直す。すると《死んだと思われていたマルクスの思想が突然、息を吹き返す》(同書解説)というのだ。
同じようにカントからへーゲルを読み直すようで、そうすると、《カントが、あとほんの少しでヘーゲルだったことがわかり、またヘーゲルは、ほぼカントだったことに気づかされるのだ》。いやまあ、具体的なことはほぼわからないが、抽象的にはこれはものすごく面白そうではないか。
さてそして―― 冒頭の「ジジェクがトランプを支持した」というニュースに関連しそうな部分を、その「はじめに」に見つけたので、最後に紹介しておこう。
ジジェクはラクラフとムフという人の考えに依拠しつつ次のように述べる。
《われわれは、根源的解決をめざすという意味では「根源的」であってはならない。われわれはつねに借り物の時間の中で隙間に生きているのであり、すべての解決は暫定的・一時的であり、いわば根源的不可能性を先延ばしにしているだけである。したがって彼ら(*ラクラウとムフ)のいう「根源的民主主義」という用語は逆説的に受け取るべきである。それは純粋な真の民主主義という意味での「根源的」ではない。反対にその根源的な性格は、民主主義そのものの根源的不可能性を考慮に入れることによってのみわれわれは民主主義を救うことができる、ということを意味している》(訳:鈴木晶)
さらに直前のジジェクの記述は以下。
《民主主義はつねに腐敗や退屈で凡庸な支配の可能性をともなうが、問題なのは、この内在的な危険を避けて「真の」民主主義を回復しようとする企てはすべて必然的結果としてその反対のものを生み出すということであり、結局は民主主義を破壊することになるのである》
このあたりからは、たとえば「トランプ勝利なんていかにも不完全で危なっかしい民主主義でしかないが、民主主義を殺したくないのであれば、それに寄り添う以外にどうしようもないだろう」といった理屈を引き出せるのかもしれない。
それにしてもまあ、ヘーゲルだのマルクスだのラカンだのと、本来は縁遠い人々の思索を、スロヴェニアだかどこかのヘンな人の解説で読める。それも日本語で読める。しかも大澤真幸による得難い解説とともに読める、まして図書館で文庫本をあっと言う間に手にして読める。日本もまだ捨てたもんじゃない。
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