『冬冬の夏休み』が至福の時間としか言いようがないのは何故なんだ? ディープラーニングがものごとの特徴を把握するカギはどこにあるのだ? そんなことばかり考える。小池百合子と稲田朋美で真の極右はどっちで、その思想を私は永久に拒絶するのだろうか。そんなことばかり考える。
そんなことを考えながらも、お盆なので、同窓会に行ったりする。もちろん、何十年ぶりに会った人もいるなかで、そんなテーマのディスカッションをするわけはなく、どれほど会話が弾もうが、その解答が出たりは絶対にしない。
だったら何が楽しくて人と会うのか。人の心は複雑なのだという答えが、すべてを言い尽くしている。コミュニケーションは思考や議論が目的ではなく、相手の理解だけが目的ですらない。
コミュニケーションを貶めたいのではない。同窓会を貶めたいのではない。全く逆だ。私たちは人生の大半を、よくわからない熱烈ななにかに駆り立てられて、すごす。それを「アホらしい」と言ってもよいが、「素晴らしい」と言ってもよい。
ともあれ、人工知能に「懐かしい」がわかるようになるのは、少なくとも私たち同窓生が老衰で消えていくより早くはないだろう。
上の話は、思考と感情は、つながってはいるにしても、まったく別のモジュールだということが言いたかった。心臓と胃腸がまったく別の臓器でまったく別の機能をもっているのと同じ。
人の心(思考や感情)は、臓器と違って目に見えないために、漠然としていて分離しにくいだけ。心をうみだす脳にしても、なんだか単調で均一に見えるので、思考と感情が心臓と胃腸と同じくらい異なる、なんてことを思ってもみないだけ。
神経細胞はみな同一かつ単純であろうとも、それを材料にして出来た心は、非常に多彩かつ非常に複雑なモジュール(部品)の連合体なのだ。細胞がみな同一で単純であろうとも、それを材料にして出来た体が、心臓、腎臓、肝臓、肺、胃、腸と、非常に多彩で非常に複雑な臓器の連合体であるのと、同じ。
さて「心は多機能モジュールだ」と改めて言いたくなったのは、スティーブン・ピンカー『心の仕組み』をようやく読み終え再読に入ったから。
(著作全体の構図が見えたうえで見事さを反芻するのは楽しい。好きな映画のカットの連結を反芻するがごとし)
要するにピンカーは、心の成り立ちが、1つや2つの原則、たとえば「学習」とか「模倣」とか「文化」とかで、説明できるわけがないよ、と言いたいのだ。心は心臓のごとく眼球のごとく手足のごとく精密な機械だよと。それが、同書をここまで書き抜いた強い動機になっていることがうかがえる。
そうして、残暑厳しく終戦の日も迫った昨今、どうしても考えてしまったのは、国もまた精巧な多数のモジュールの連合体であり、たとえば「平和」という理念・機能だけでは、マネジメントできない、説明すらできないのではないかということ。なんということだ、また右傾化していく私。