清原やベッキーをめぐる出来事がもしも小説や映画なら、彼らを100%好意的な人物として描くことは可能だろうし、それならば見聞きする人々もわりと自然にエールを送るだろう。でもこの出来事が「現実だ」と思っているせいで、なかなかそうもできない人が多い。
このときぶち当たっているのは、小説や映画といった架空世界が原理的に抱える謎なのか?(つまり「小説って不思議だね」「映画って何だろうね」) いやそれ以上に私はなんだか「ニュースって不思議だね」「有名人って何だろうね」という謎に包まれる。奇妙と錯誤は現実世界にこそある。
こんなことを未明に言うのは、日々報道される現実世界に私が撹乱されているからだろうが、もう1つ、さっき読んでいた『悪霊』(ドストエフスキー)で、スタヴローギンが幼い女児の写真を市中で見つけて買うというシーンがあったことも大いに影響している。
つまり、そのころ写真というものが登場したことで、現実世界というものの範囲や感触は、それまでとは決定的に変容したことだろうが、それを踏まえて今の私たちに起こっている現実世界の変容を考えてみると、ドストエフスキー時代からの落差ですら気が遠くなるほどの変容ではないか!
要するに、ベッキーや清原は19世紀にはいなかった。存在したとしても21世紀と同じような現実としては存在できなかった。ドストエフスキー「21世紀は楽しいか?」 私たち「微妙です」
ところで正月からちびちび読んでいる『悪霊』(光文社古典新訳文庫)は、第2部に来ていよいよ佳境に入った感あり。この小説を、私は、時折きざす無神論の影に惹かれてたどってきたようなところがあるが、ついにテロリズムという、今の私には喉元に刺さった魚の骨みたいなテーマが頭をもたげてきた。
訳者(亀山郁夫)による巻末の解説が非常に充実した本であり、おかげで空想的社会主義、ナロードニキ、ロシア正教などの潮流をいくらか押さることができ、面白さは加速する。現在の日本に置き換えたら何だろう。空想的リベラリズム? 小沢一郎的農村人民の中へ? ロシア正教はもしや天皇制?
しかし、『悪霊』に描かれている(とおぼしき)無神論とテロリズムという難問だけは、21世紀の日本や世界を眺めていて私なんかがやっぱり行き当たってしまうような無神論とテロリズムという難問と、時代の隔たりはまったくなしに通じているように感じられる。
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たしかに正月から『悪霊』をずっと読んでいるが、実は『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)なんて2013年暮れからとぎれとぎれに読み、今年やっと西南戦争が始まった。『悪霊』では1869年9月がずっと続いているが、『翔ぶが如く』では薩摩軍と政府軍がずっと田原坂にいる。1877年だから同時代。
そういえば、NHK「司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち 第2集 “武士”700年の遺産」をちらっと見たら、武士の「名こそ惜しけれ」の精神が礼賛され、それが「賢い明治」を支え、かつ、その精神がねじ曲がったがゆえに「愚かな昭和の戦争」が起こった、という見方だった。
◎http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160214
司馬遼太郎の意見をそう捉えるのは一般的だろう。ただその一方、西南戦争における薩摩軍を「戦略的にあまりにも愚か」として描き、それは西郷隆盛の最低評価にも通じる。しかしまた司馬は、西郷こそまさに「名こそ惜しけれ」の神と見ているところもあり、そのねじれが不思議でかえって面白い。
《西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような国の戦史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった》(『翔ぶが如く』文庫第9巻)
《これとそっくりの思考法をとった集団は、これよりのちの歴史で――それも日本の歴史で――たった一例しかないのである。昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれをとりまく新聞、政治家たちがそれであろう。》(同)