東京永久観光

【2019 輪廻転生】

目が見えなければ視点など存在しない?


「言葉は不思議だ〜」ということを15年くらいは考えている。どう不思議かというと、もし言葉がなかったら、私の今のこの感じは、私の今のこの感じと、どれほど違っていたことか! という思いに結実してくる。言い換えれば、「じゃあ、猫はいつも、どんな感じでやっているんだ?」ということ。

それはイコール、言葉をもたない人間以外の様々な生物がこの世界をどんなふうに捉えているのかという問い。しかもそれは、地球外に知性的生物がいた場合どんな感じでやってるんだろう、という想像に明らかにつながるから、ますます面白い。

ところが、そこにいる猫やハトや亀や金魚やセミやザリガニに「言葉がないってどんな感じ?」と聞けたとしても、「こんな感じ」と言葉では言わないわけだから、結局知りようがないという、とても寂しい原理に思い当たる。

地球外の生物なら、ひょっとして言語に翻訳できる表出手段を持つかも、と夢想できるので、そこはもうひとつ興味深い。しかし、地球上に無数の生物がいても言語を使う生物が1つしかないことを思うと、そもそも地球外に生物が1つも見つかっていないなかで、言語交信できる生物なんて見つかるのか?

さてこうした、人間とは異なる生物が「どんな感じ」なのかは彼らが言葉をもたないがゆえに知りえない、という原理的な壁を、ひょいと乗り超える可能性のある素晴らしい例、しかも実例があったことに、このあいだ改めて思い至った。それは「目が見えない人たちがどんな感じでやっているのか」だ!

目が見えない人は、この世界(今のこの感じ)を、目がみえる私とは相当異なった捉え方をしているに違いない。その異なり方は、言葉をもたない人との異なり方に近いほど大きいのではないか。先日、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗)という新書を読んで、そう思ったのだ。

目の見えない人は世界をどう見ているか/伊藤亜紗
  目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

具体的な例としては、大岡山(東京の地名)の駅から道を歩きながら大岡山の土地がたしかに全体として丘なのだと実感するとか、部屋の中にいて音の反響ぐあいからカーテンが開いているかどうかを判断するとか、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測するとかを、同書は記している。

(念のため最初の話に戻っておくが、言葉をもたないという、こちらからすれば途方もない隔絶の感触は、原理的に言葉にはしてもらえないが、視覚をもたないという、同じくらい途方も無い隔絶の感触なら、言葉にはしてもらえる、ということ)

さてそれで同書は、先に挙げた具体例から、視覚をもたない世界の捉え方とは、つまり「視点がないこと」なのだという核心に至る。なるほど、そうだったのか!!!!! たとえば風景を眺めるときの自身の立ち位置みたいなものが存在しないということ。

風景のような文字通りの視覚像にとどまらず、たとえばサイコロというと私ならどれか1つの目だけが上に出た像しか思い浮かべられないが、目の見えない人はひょっとしていずれの目も均等に出ているようなサイコロを思い浮かべるのではないか、ということに思い至る。これは途方もなくすごいことだ。

これは、私たちが「雪」を思い浮かべるとき、今自宅の窓から見える雪だけではなく、去年の雪も10年前の雪も、「雪国」の雪も、九州の雪もアメリカの雪も、みんなまとめたような「雪」を思い浮かべると思うが、目の見えない人はあらゆる事象をそのように思い浮かべるということかもしれない。

あるいは、太平洋沖から日本列島に押し寄せた津波を、私たちなら、ある時点のある地点の波としてイメージする。ところが、津波全体としては時間や空間を超えて広がった事象だといえる。そうした津波の全体的な存在を、目の見えない人なら、かる〜く思い浮かべているのではあるまいか!

もう1つ興味深い例。目の見えない人(中途失明の人)が紅茶のカップを手にしていて、最初それをガラスのカップだと思っていたが、あとから陶器のカップだと知ったとき、カップのイメージが透明から急に不透明に変わった、という。彼らにはこの世の事象はおしなべて可塑性をもつのではないか。

こうなってくると、こんなことすら思う。電子が原子核の周りのどこか1点ではなく全体に広がるかんじで存在している、といった量子力学的な宇宙像なんかも、目が見えない人は、違和感なく理解したり想像(?)したりできるのかもしれない、と。

もう少し身近な例に置き換えて、富士山や月を目が見える人は2次元の像で思い浮かべるが、目の見えない人は3次元で思い浮かべる、といった記述が同書にある。そして《そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではなか、という気さえしてきます》と書いている。


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なお、私自身、目の見えない人の話を聞いたことがあり、そのときの驚きについては以前も書いた◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080408/p1(バケツと世界)

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今回強く感じたのは、生物間を超える難しさというより、視覚優位ゆえに本来の(?)世界像が著しく限定されている可能性です。たとえば目を持たず移動もしない生物だったら時間や空間という形式すら無いこともありか、と。


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(追記)以下の考察は必読。http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20160311