東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★ハッピーアワー(映画)/監督 濱口竜介


渋谷イメージフォーラムで劇場鑑賞。

http://hh.fictive.jp/ja/(公式サイト)


5時間17分の映画というのは、大勢のなかに身長3メートルの人がいるくらいの落差をもたらす。象を初めて見たようなインパクトというか。

だから、たとえば「失われた性愛の回復」という主題の1つを描くにも、長尺ゆえの説得力がある。日々の経過のなかで実体験したかのような気がしてくる。

登場人物たちは議論をよくしているが、「あ、長いな」と感じるまで終わらないので、スクリーンのこちら側の私たちも同席している気になり、つい一緒に考えてしまう。そんなおかしなことも起こりやすい。

「重心を感じる」とかいう怪しげなワークショップも、ほぼまるまる見せられる。打ち上げのやりとりまで包み隠さず。そんな通常の映画では滅多にないことが成り立つのも、5時間超えという物理的余裕のおかげだろう。もちろん、作り手が何かを省略しないことに意義を見出そうとしている可能性も大いにある。


それはそれとして――

友人4人組の1人である純が自らの離婚問題を明かすことで、映画は緩やかに動き出し進んで行く。その時間の流れは濃くはあっても穏やかで、そのペースに慣れてしまっていたところ、第3部まで来てストーリーは激変する。純以外の3人において、それぞれどうにか保たれていた男女関係が、それぞれバランスを一気に失って瓦解してしまうのだ。まさかの人がまさかの人と接近する。観客もほぼ忘れていた伏線に火がつく。

それは、シールズが急に安倍政権を支持し始めるとか、ロシアが北方領土を返すとか、私が渡邉美樹に弟子入りするとか、それくらい奇想天外で唖然とせざるをえなかった。

同じく第3部では、ある女性作家の朗読会が開かれ、あのワークショップ並みにまた長々と参加させられるのだが、再び訪れたその臨場感のためもあってか、朗読する作家の純真そうなイメージは、十分お馴染みになっていた主役女性4人の存在感をさっと凌いでしまうほど新鮮で、そんなまったく予期しなかった空気の変化に、(うれしくて)思わず笑いたくなってしまった。さらにすぐそのあとには、純と別れる別れないを裁判までして争っていた悪役っぽい夫が、なぜか、その朗読後の対談相手を急遽代役として引き受けることになるのも、驚くべき展開だった。しかもその夫は、朗読会の打ち上げのシーンでも大車輪の活躍を見せ、「おいおい、この人、もしや映画のすべてを、今ごろになって かっさらっていくのか?」と錯覚させるほどだった。

こうした予想外の人物の大見得が、純以外の3人の男女関係の変転という事態に重なり、第3部の破壊力はひたすら大きかった。「それなりに きれいごとの群像劇に収まるのか」という予断が揺さぶられた。少なくとも「人物たちの誰が正しかったのか」「誰に共感すればよかったのか」という問いは、人工知能にでも聞くしかないと諦めるほかなかった。

だいぶ前の連休に、三浦半島の先まで行こうと思って品川から京浜急行に乗ったのだが、途中なんとなく気が変わり、乗り換えて逗子のほうに行き、そこからバスと江ノ電を乗り継いで、結局 江の島を一周し、小田急線で帰ってきた、ということがあった。この映画も「ああこっち方面ね」とおおよそ安心していると、路線がふいに変わり「あれどっち方面?」と惑わされる。5時間もあると、全体の物語の進行とか計画とか均衡とか、わりとどうでもよくなってしまうんじゃないか〜♪

本筋と別のところに引きつけられたということでは、4人が有馬温泉に行った帰りに、純がバスの中で会話した女性がまた、あまりにも印象的だった。「父親がわけのわからないウソを突く人で、自分が6歳のとき、祖父が死んだというのに、父は、祖父は大阪に行っているんだとウソをつき、自分はずっと信じていた」という話を延々と聞かせる。これまた無駄と言ってよい長さのなかに、面白さの秘密はあろう。


ところで――

ことしは1月1日から人に会う機会があったので、この映画を見に行った1月2日には、コミュニケーションということについて少し考えていた。

私の場合、何かの手段として人に会うというのは、仕事を別にすればあまりない。それこそ きれいごとに聞こえるが、でも実際、人に会うのは一重に楽しいからなのだ。

でも、人と会うのが楽しいというけど、「じゃあいったい何が楽しいのか」と考えると、わからなくなる。

それは生きる意味を問うのに似ている。生きる意味がよくわからないように、人と会う意味もよくわからない。やはり「何かの目的のための手段」として分析したほうが、正確な言葉になるのかもしれない。それでも、生きることも人と会うことも、やっぱりそれ自体に意味がある、それ自体が目的だと思いたい。が…

『ハッピーアワー』も、みんな凄まじい勢いでコミュニケーションを繰り返すのだけれど、「それって何のためだったんだっけ?」と、むしろわからなくなる映画だったと言える。思い返してそう総括している。

5時間17分を過ごしながら、夫婦・友人・恋愛の関係の「安定」ということについて説得されたいと私は期待していたのだろうが、むしろそれらの「動揺」のほうが胸に強く刻まれたということだ。登場人物たちが、人と会い、人と話せば話すほど、心はむしろ揺れる、むしろ壊れる。そんなことの連続だった。

もうこうなったら、コミュニケーションは関係や思考の安定ではなく動揺を求めてこそ行うのだと、見方を逆転させてはどうだろう。「安定は終止であり、動揺は進行である」と言い換えてもいいか。


――結論は出ないが、映画鑑賞も人との会話も、いつも短かすぎるから何も起こらないだけという可能性はある。いつもより長く、異様に思うほど長くコミュニケーションしたときに、その場や人との関係に奇妙な相転移が起こったという経験が、思い出されなくもない。5時間17分。スクリーンだけを見つめて過ごした一番の効果もそれだろう。


 ***

<追記>

https://twitter.com/mtokijirou/status/699957533973172224
《コミュニケーションが非対称的な場面にこそ感情がつまっていて、それがふつうの場面に溢れ出すって構造》(長谷正人さん)