東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★ベン・ハー/ウィリアム・ワイラー


 ベン・ハー 製作50周年記念リマスター版(2枚組) [Blu-ray]


きのう脈絡もなく『ベン・ハー』のディスクを見たのだが、ローマ帝国の首脳が、支配したユダの地で、民の信じる一神教に違和感をもち、どこかの大工のせがれが妙な説教を始めたという噂をとりわけ問題視している――その構図は、欧米先進国がイスラム国を問題視するのと脈絡ありすぎだ〜、と思った。

ベン・ハーは子供のころテレビでよく流れ、競馬シーンばかり目に焼き付き、ただそのうち「あれはイエスを描いた映画だ」と誰かが言った記憶もあり、実際初めてちゃんと見たのだが、確かにイエスが登場し、それどころかキリスト教の信仰と奇跡を描いた作品と言ってもいいので、また驚いた。

それでつらつら考えたのは―― 子供のころローマとかユダとか大工のせがれとか言われてもまったくピンと来なかったはずだが、長く生きた今では、キリスト教を信仰せず無宗教か多宗教かもはっきりしない極東の人であっても、キリスト教のことはいくらかは知っているという、大変な事実だ。

何が言いたいか。そもそもキリスト教イスラム教もともに、ひょっとしてオウム真理教に並ぶくらい、強烈な神や奇跡とともにある信仰共同体なのだろうが、なぜか私は、ベン・ハーを楽しむくらいにはキリスト教を知るようになったのに、イスラム教のほうはいっこうに何にも知らないという事実!

だいたいキリスト教を描いた映画ならいくつか思い出せるが、たとえばムハンマドを描いた映画なんて、そもそも国際市場には1つも存在しないのではないか?(どうなんだろう)。圧倒的な非対称とはこのことではないだろうか。

要するにイスラム教は私から遠い。もちろんキリスト教も仏教も遠いが、イスラム教は果てしなく遠いのだ。911後あるいはシャルリエブド襲撃後、少しは積極的に感動してもよかったのに、今なお1つも感動しない。子供の頃ベン・ハーをみてキリスト教に感動しないのと同じくらい、今も感動しない。

ただし、イスラム教とりわけISが私から遠いことは、私の安全を保ってもいる。IS兵士の世界観や行動は、日本の戦国時代の武士みたいに極端だと思うが、ISと私の距離の遠さは、戦国時代と私の時間の遠さに匹敵する(はてしなく遠い)。おかげで私はテロとも下克上とも無縁でいられる。

私に比べれば、パリの人にはキリスト教はもっと近いだろうしイスラム教もいくらか近いのだろう。自分には遠いが他人には近くにある危険を知ったとき、遠いからと安心していけないわけではないし、また、遠くの他人に少しはおせっかいに深刻になるべきでもあろう。しかしもっと大事なことは――

では自分に近い危険は何であり、それがいかに耐え難く、しかもいかに避け難いか、それをしっかり見つめることだろう。そうすることが、自分からは遠い他人の危険に少しでも寄り添う本当の手立てだと思う。さてでは、私に最も近い危険とは何か?

具体的に揚げると憂鬱になるが、個人的にも国的にも切迫している危険は確かにある。売上や世間のためならブラックな職場で無料残業も過労死も厭わない、なんてのもその1つ。そんな自身の危険(狂信)を通じてこそ、何かのために自爆も厭わない危険(狂信)な人々のことが、少しわかるだろう。

ともあれ『ベン・ハー』面白かった。イエスを処刑したローマがやがてキリスト教の帝国になるというのは世紀のパラドクスだし、ユダの王族であるベン・ハーを見込んで騎手に仕立てたのがアラブのある族長だったりするのも、妙な巡り合わせだ。

ガレー船というものを(映画で)見たのも初めてだろう。なんという苦行、なんという絶望。しかし、現代でも労働のいくらかはあんな感じじゃないか。奴隷になるより貴族になりたい。