東京永久観光

【2019 輪廻転生】

認知症の時代(とっくの昔から)


もしも、ある街(あるいは国や世界)に認知症の人だけが暮らすことになったら、たいへん混乱するだろう。

しかし現実のこの街も国も世界も、すでに十分混乱している。

で、「この現実、なんとかしろよ、たとえば政府!、たとえば国連!」と、今言いたいのかというと、それもあるが、そうではない。

仮に、共産党の人が自民党の人を「認知症のようだ」と思い、あるいは逆に、自民党の人が共産党の人を「認知症のようだ」と思ったとして、そのとき、実は自分が認知症のようである場合には、待てよもしや自分自身が認知症なのか? とは疑いもしないだろう。しかし今、それが言いたいのでもない。

何が言いたいかというと。1つは、現実のこの困った街や国や世界が「まるで認知症だ」と形容したいほど「救いがたい」と感じることがあるが、それでもどうにかするしかないし、どうにかなるだろうと、信じたいということ。

もう1つは:この世には私よりはるかに思考や行動がクリアな人がいるみたいだ、といううすうすの実感。しかも、私が彼らほどクリアな思考や行動ができないために、それを明瞭には認識できず、あるいはまったく認識できず、彼らにすれば私がいわば「認知症」かもしれない可能性。ありうるよね。

「彼ら」には人間もいるが、やがて人工知能は「彼ら」になるだろう。

そしてもう1つ言おう。私たちがふつうに認知症であったり認知症になったりしたら、そのときはともあれ互いに愛しあうしかないね、と言うこと。それは綺麗事だとしても、綺麗事を捨てたら、この街もこの国もこの世界も、みんなそろっては生きていけない。場合によっては私が生きていけない。