工作舎のずいぶん古い本を手にしている。その筋には有名か。
道教(タオイズム)の道がタオだが、「タオとは何か」といった根本の定義をしないところにタオの真髄があるようだ。
《タオは言葉を用いない
タオは花のように無言だ
タオから生まれる言葉はある
タオは言葉を生みだす
けれどもタオは言葉を用いない》(p.10)
…といったぐあい。
実は最近『無限の始まり』をまたもや再読・熟読し、言葉による定義や説明の地獄訓練を受けているかんじだったので、こっちの本のあまりの軽やかさはオアシスのようだ。ページはどんどん進む。いや秋の微風が勝手にめくってくれる。
『タオは笑っている』は、文章自体はとてもシンプルだが、そうした言語による説明ではどうしても漏れるものがあることを伝えようとしている。実際、言葉にできることは限られている。言語の外にあるぼんやりとした世界のほうが明らかに果てしない。たぶん。しかもそれは遠くにあるのではない。私の情緒や思考の大半はむしろその中でにじむように広がっていると言ったほうがよい。――読んでいるとそんなふうに思えてくる。
対して『無限の始まり』は、言語が語れる範囲をいわば非常に狭く限定し、しかしそれを100%厳密に用いることで、その言語が語れる範囲を100%描き切ろうとする。しかも、そうした言語による説明こそが無限の力を生みだせるという確信を伝えようとしている。
どちらの本も捨てがたい。
「最近、タオは笑っている、という本を読みましてね」と大昔ある人が言ったのを思い出す。私はまだ少年と青年の境目くらいだった。その人がその本を読んで、生きることの見通しがひとつ画期的によくなったらしいことは感じられた。しかし私はもちろんタオとは何かを知らず、仮にその本を読んでも理解できなかっただろう。そもそもそのころはあらゆる本がたいして理解できなかった。
そんなことがあって、今この本を読むのは、なんだか夢のようだ。
そういえば、「タオは笑っている」という書名を その人はすべて平板で読んだ。北関東の出身だったのか。おかしなことを忘れない。