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【2019 輪廻転生】

すばらしい日本の内戦(ジハーディ・ジョン 対 明治人)


翔ぶが如く』をまだ読んでいる。ぽつぽつと。司馬遼太郎のこの小説は、明治維新でにわかに成立した日本政府と、幕府を倒した功績にもかかわらず大いに冷遇された士族たちの、深い対立と衝突を描いている。

近代日本最大の内戦たる西南戦争がクライマックスになるようだ。西郷隆盛は小説の初めには新政府の中心にいたが、政策への憤りを露わにし早々と鹿児島に帰ってしまった。残された大久保利通ら政府首脳たちには緊迫と警戒の念が否応なく高まる。西郷は反乱に立ち上がるのか、それはいつなのかと。

文庫で10巻あるが今 7巻目。

西郷の宣戦を待望しつつ各地の不平士族たちは先に戦闘を開始する。熊本で神風連と呼ばれた集団が明治政府に支配された同県庁などを急襲したことが皮切りだった。この神風連の思想と行動を司馬遼太郎は淡々と描写している。彼らは最終的には廃刀令が許せず決起した。そして神社にひっそり集合して死ぬ覚悟を固め、ただちに県と国の要人らを殺しに向かう。ひたすら寡黙に、ひたすら猛然と。そうした精神に人のあり方と国のあり方の理想を漠然と抱きつつ、自死する以外の戦略や政策は持ちあわせていない。

ここを読んでいて思いがけずオーバーラップしたのが、近ごろイラクやシリアやアフガニスタンやナイジェリアやイエメンやチュニジアケニアで相次いで戦闘を起こしている多数の見知らぬゲリラ集団のことだった。ただ敵を殺し ただ自死し神と一体になるところに人と国の理想を追っているとも思える点は、神風連とかなり似ている。

後藤さんと湯川さんを殺した「イスラムのテロリスト」なんて、日本の私には最も遠い存在だと思っているわけだが、そうも言い切れないかとまた気づいたのだ。

いやその前に、イスラムの自爆戦をニュースで眺めるとき、日本の私たちなら特攻隊による戦闘を思い出してもいいだろう。

司馬遼太郎は明治の日本を高く評価する一方、昭和の日本の戦争は唾棄すべきものと見ていたと言われる。そのとおり『翔ぶが如く』でも西郷隆盛という奇怪にして偉大な人物をめぐっては最大級の驚愕と敬意をまったく隠さない。神風連の「テロ」を描くにも西郷をほうふつさせる潔さがむしろ強調されている。それと対照的に、神風連に同調し3日後に萩の乱を起こした前原一誠には、きわめて冷淡な視線を一貫させている。前原には革命の戦争を成し遂げるだけの行動力や決断力が欠けていたことが理由のようだ。つまり、人を殺したり自分が死んだりする覚悟と潔さが西郷隆盛や神風連に比べたら薄すぎるじゃないか、と言うわけだ。司馬遼太郎の気持ちを私はそのように読んだ。

さてそうなると興味深い問いが浮上する。もし司馬遼太郎が生きていたら、現在イスラムの国で激化している戦争をいかに評価するのかと。明治の日本で西郷隆盛といういわば神秘の教祖に導かれた各地の士族の反乱とそれが行き着いた西南戦争という内戦。そうしたいくらか理解のある視線をイスラムの反乱と内戦にも向けるのだろうか。それともイスラムの反乱と内戦なんて昭和の特攻隊と同じで「あまりにもくだらない」ものとしてしか眺めないのだろうか。

これは私自身の疑問でもある。イスラムの国で進行しているゲリラ戦や内戦は、かつて日本で進行した武士の反乱や西南戦争と同じようなものなのか? それとも、日本の特攻隊と同じで「その価値は永遠の0」なのか? ――あるいはそもそも特攻隊だって100%切り捨てるべき歴史ではないのか?


神風連の乱の錦絵


新装版 翔ぶが如く (1) (文春文庫) ジョン・レノン対火星人