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【2019 輪廻転生】

神が不在なら…


少なくとも3.11の地震津波原発事故のあと日本中の大勢の人が「人知を超えた何か」みたいなことをたぶんそれなりに考えていると思うのに、同じく「人知を超えた何か」を考えていると思われる(旧)オウム真理教の人を何故これほど拒絶するのか、不思議といえば不思議。

サリンをまいたから当然だろ」と言われれば、そのとおりかもしれないが…

ふつうに葬式に袈裟を着てやってくる坊さんなどの多くが、あまりそうしたこと(人知を超えた何ごとか)を考え抜いていないのは、たぶん間違いない。

そのように日本は西洋と異なり宗教が希薄なので、死ぬことの苦悩や受容という問題は、がんなどを治療する医師らが肩代わりせねばならない、という実情を聞いたことがある。医師本来の仕事ではないだろうに。

とはいえ、「ほぼ神は不在」という特殊な状況下で、個人がどう楽しく生きるか・老いるか・死ぬか、あるいは社会がどう正しく進むか、そんな難問を日本が解くことができたら、もしかして世界の模範となる偉業、世界史的にレアな偉業になるのではないか?


放っておくとついこうした格調の高いことを考えてしまうのは、性格のせいと、早朝のせいと、『老人喰い』(鈴木大介)とかを読んでいるせいだろう。


そういえば、イングマール・ベルイマンの映画がDVDになり『冬の光』とか初めてみたが、これはまさに「神の不在」がテーマだと言われる。日本の無宗教の私には、そもそも神は不在なので、その深刻さが今いちわからない気がする。

ジョン・レノンの「イマジン」もずっとそうだった。Imagine there's no heaven(天国なんてないんだと思ってごらん)。いや、ずっと昔から天国なんてあるわけないと思っているから、本当はこの歌、ピンと来ないはずなのだ。もちろん地獄もないし、頭上には空があるだけ。

格調高いついでに書いておくと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」というパートも、無神論がテーマだとされている。私は断然アリョーシャではなくイワンの本音に近い。


とはいえ、神が実在しようがしまいが、私は実在し宇宙は実在する。土星の衛星エンケラドスには熱水も実在する。考えてみればこれらのほうがもっとすごいじゃないか!(あるいは、少なくとも神が実在するくらいすごい)


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せっかくなので『カラマーゾフの兄弟』を読みなおした(亀山郁夫訳の光文社文庫)。

いわば「人々に信仰を軸にした理想の生を自主的に選びとらせることで天国に到達させよう」というイエスの大方針に、イワンは真っ向から反対する。そして表明するのは、いわば「大多数の人間はパンを与えてくれる者に盲目的に従うことでしか幸福や救済を得られない」という強い諦観だ。この疑念こそが「大審問官」の中心テーマなのだった。

そのなかでイワンは、人々が実際ひどい貧困や暴力に苛まれている現世は、それが仮に神の意志であったとしても、捨て置かれてなるものかと考えている。そうした現世の悪は復讐されるべきものだとすら主張する。かすかにテロリズムを匂わせるこのくだりに、私のイワンへの関心はますます高まった。

なお、イワンが神をめぐって展開する自身の思索には、当時欧州の先端的学問だったと思えるロバチェフスキーらの非ユークリッド幾何学が、なんと参照されている。

《かりに神が存在し、この地球をじっさいに創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ。
 ところがいまでも、全宇宙、いやもっと広く全存在がユークリッド幾何学だけにしたがって創られたってことに、疑いを挟んでいる幾何学者や哲学者はいくらでもいるし、おまけにきわけて有名な学者さんのなかにさえいるくらいなのさ。そういう連中は、ユークリッドによればこの地球上ではぜったいに交わりえない二つの平行線が、ひょっとするとどこか無限の彼方では交わるかもしれないなどと、大胆にも空想しているんだよ。
 で、おれはな、アリョーシャ、こう考えたのさ。もしもこんなことも理解できないくらいなら、神のことなんてとうてい理解できるはずがない、とな。だから、おれはおとなしく白状するよ。こういう問題を解決する能力などおれには何ひとつ備わっていない。そもそもおれの持っているのは、ユークリッド的、地上的頭であって、だからこの世界とかかわりのない問題は解けるはずもない、とな。》

これまた興味深い内容だが、その帰結としてイワンは次のように結論するのだった。

《ところがだ、いいか、驚くな、最終的な結論としては、このおれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。むろん、それが存在していることは知っているが、でも、ぜったにそれを認めない。おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつを受け入れることに同意できないんだ。》

平行線が交わるくらいのことは平気で起こせるはずの超越的な「神」を前提にはするけれど、その神が人間向けに方便として創ったらしい三次元に限定されたこのひどい現世まで受け入れる気はない、ということだろう。

イワンそのとおりだ! ドストエフスキーなかなかやるじゃないか!


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

「大審問官」は第2巻にある。
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

同巻末には訳者による「読書ガイド」があり「大審問官」を読むための基礎知識も示されている。なにかと評判の同文庫シリーズだが、この点も親切でうれしい。