在特会によるヘイトスピーチは「許してはならない」と思う私だが、桑田佳祐さんが紫綬褒章を使って行ったと伝えられるパフォーマンスは「許してはならない」とは思わない。ダブルスタンダードではないとも思う。
一方、ムハンマドを冒涜する表現を「許してはならない」かどうか、またはムハンマドを冒涜する表現を禁じることを「許してはならない」かどうかとなると、自分の思いははっきりしない。何故だろう。他人事だとおもって十分考えていないせいだろうか。
さてでは、桑田さんのパフォーマンスに対する抗議行動はどうか。「許してはならない」のか。これまた自分の思いをはっきり言えない。しかしこちらはむしろ、いろいろ考え過ぎているせいもあるのではないか。
(追記)桑田佳祐さんは、褒章やヒゲを使ったパフォーマンスについて、のちに謝罪をした。
◎ http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/17/kuwata-keisuke-southern-all-stars_n_6494184.html
私にはパフォーマンスそのものより この謝罪のほうがよほどショックは大きい。
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こんなことばかり書いているうちに、「許してはならない」の「許す」ってどういう意味だろうとか、それ以上に「〜てはならない」ってどういう意味だろうとか、私の場合そんな考えにもつい入り込む。
「許す」「禁じる」といった行為とは別に、「〜しなければならない」「〜してもいい」「〜しなくてもいい」「〜してはならない」という4つの態度があると思われる。英語ならそれぞれ「must」「may」「don't have to」「mustn't」だろう。
4つは1つのまとまりを成していると考えられる。ということは、人間が「must」という概念や語を初めて思いついたとき、必ず同時に「may」という概念や語も思いついたということか?
人間の言語はパーフェクトとは言えないのだろうが、では人間が現在用いている論理はどうだろう。やはりパーフェクトではないのか?
「〜しなければならない」「〜してもいい」「〜しなくてもいい」「〜してはならない」の4つ以外に、あ、そうだ「〜◯◯◯◯」という態度もあるじゃないか! などという大発見は起こりうるのか?
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というわけで、議論はいつもメタ化する。つまり、シャルリ・エブド襲撃に関する議論が、「シャルリ・エブド襲撃に関する議論」に関する議論になり、さらに『「シャルリ・エブド襲撃に関する議論」に関する議論』に関する議論になる。
言論のメタ化について思考したジャック・デリダは、賢明にも「ペンのインクが尽きるとき、議論は否応なく終わる」という事実を重視したという。
◎参考:http://blogos.com/article/29234/