ともあれ、ムハンマドを風刺することだけは断じて許してはならないと信じる人々が大勢いるようだ。それらの人々に個人的には大きな関心をもつけれど、違和感もどうしても覚えてしまう。その違和感は、考えだすとややこしいので見過ごしたいが、見過ごしていたら今回の事件についての考えはうまく進まない。
そしてまた、シャルリ・エブドを襲撃しなければならないと信じてそれを実行したと思われる人々への違和感も、当然ながらきわめて大きい。
では、上に挙げた2つの人々は同じ人々なのか。2つの信仰は同じ信仰なのか。2つの違和感は同じ違和感なのか。
同じである面だけを強調すべきではないし、同じでない面だけを強調すべきでもない。つまり、フランスも国際社会も私も、イスラム教の実在を軽んじるわけにはいかないし、同じく、テロの実在を軽んじるわけにもいかない。
こんなふうに私の考えは進んできた。
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もう1つ考えていること。彼らの信仰に対する私の違和感もまた1つの信仰なのだろうか?
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これまでに参考になった意見や議論。
◎私はアハメド、人の表現の自由を護って死にました。(http://sgtsugar.seesaa.net/article/412270226.html)
◎日本社会では「言論の自由への挑戦」が深刻に受け止められないのは当然だ(http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-253.html)
◎移民政策の多様性とイスラム回帰という共通性(https://twitter.com/masanorinaito/status/554495111292133376)
◎フランスで宗教規範への挑戦を続けることがなぜ深い意味を持つのか(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10202497816605725)
◎イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ(http://www.huffingtonpost.jp/mehdi-hasan/charlie-hebdo_b_6476358.html)
◎「シャルリー・エブド」の風刺画はヘイトなのか?(http://www.huffingtonpost.jp/kyung-sin-park/charlie-hebdo-hate_b_6476162.html)
◎フィフィさん 激おこ「あんな下品な風刺画で信仰を冒涜し続けることは、表現の自由とは違う!」(http://blog.livedoor.jp/aya_g/archives/1017558955.html)
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(追加)
◎https://twitter.com/echinodermes/status/555990547429875712
《フランスでの差別は刑法で禁止なので、従来権力や為政者への「ガス抜き」の役割を果たして来た諷刺画が、ここ15年ぐらい、左派の(彼らが口に出して言えないし認めたくない)嫌イスラムやナショナリズムやネオリベ的な欲動の、「ガス抜き」に使われてる傾向があると思います》