たとえば「ホロコーストを冒涜する表現」は許してはならないのか。それとも「ホロコーストを冒涜する表現」も禁じてはならないのか。
「従軍慰安婦を冒涜する表現」や「原爆投下を冒涜する表現」ならどうか。あるいは「靖国神社を冒涜する表現」ならどうか。
そんなことを考えつつ、「ムハンマドを冒涜する表現」を許してはならないという主張や、「ムハンマドを冒涜する表現」を禁じてはならないという主張について、考えている。
同時に、シャルリ・エブドは「ムハンマドを冒涜する表現」を今ぜひともすべきなのか、とか、シャルリ・エブドは「ムハンマドを冒涜する表現」を今なるべくしないほうがいいのか、とか、考えている。
ちなみに――。在特会がやっている活動については、許してもよい理由を私は見つけられない。一方、シャルリ・エブドがやっている表現については、許してもよいかどうかを判断する材料が私にはまだ不足している。
もうひとつちなみに――。テロによる殺人は100%悪いだろう。しかしそれなら、個人の憎しみや恨みなどによる殺人や、法による殺人や、戦争による殺人や、ゲリラによる殺人は、100%悪とまでは言えないのか、なんてことを考えると、行き詰まる。というか、息が詰まる。
ただ、上に書いたこと以上に考えるべきなのは、フランスの人たちがみな平等に生きるための、少なくともこれ以上殺し合わないための、具体的な政策についてだろう。
◎ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20150109/p1からの続き。
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あとから気づいたが、「許してはならない」と「禁じてはならない」は二律背反ではないのだから、「許してはならないが禁じてはならない」表現がありうる。同じく「禁じてはならないが許してはならない」表現がありうる。2つの言い方は気分は異なるが集合としては同一かもしれない。ともあれ、私の感覚ではヘイトスピーチはそれに当たる。シャルリエブドの今回の表現がそれに当たるかどうかはよくわからない。