今年を振り返ると衝撃的だった本は4冊くらいか。というか、そもそもちゃんと読んだ本がせいぜい4冊くらいではないかという、いっそう衝撃的な事実!
ともあれその1冊が上記。
しかし、この書名では内容の独創性がまったく伝わらない。たとえば『表象は自然現象である』なんてどうだろう。
表象とは何か。ごく簡単に言うと、うちのこれは「猫」だし、となりのあれも「猫」だ、というときの、言葉「猫」がこれやあれをまとめて表象している。うちの猫ととなりの猫は同一ではないし似てもいないかもしれないが、それでも同じ「猫」だと私たちは思うし私たちは言う。
では、表象という働きは人間の頭の中でのみ起こるのか。それとも動物はみなそうしているのか。物質はみなそのように反応するのか。すなわち表象とは自然が本来もっている性質なのか。――そういった問いが浮上する。
さて本の詳しい紹介はまたいずれということにして、これをめぐって最近自分で思ったことを書いておく(同書の本筋とはたぶん離れる)
私の血管の中にある赤血球Aと赤血球Bは、まったく同一なのかというと微妙に違うだろう。それでも私の肺はAもBも同じ「赤血球」とみなして酸素を運ばせるだろう。つまり、人がうちのこれととなりのあれを大ざっぱに「猫」としてくくるように、肺はこの細胞Aとあの細胞Bを大ざっぱに「赤血球」としてくくる。すなわち、肺は「赤血球」という表象をもつ。そう言っていいだろう。
ここでハタと思った。細胞くらいのサイズ以上になれば、そもそもまったく同一である物なんて絶対ないだろう。赤血球Aと赤血球Bもそうなら、アメーバAとアメーバBもそうだ。当然、ハエAとハエBやガゼルAとガゼルBがまったく同一なんてことはない。だから、人間だってライオンだってカエルだって肺だって表象なしには生きてはいけない!(AもBも同じハエだ、同じガゼルだ、同じ赤血球だとわからなければならない)
では、自然界に同一のものはそもそも存在しないのか。どうなんだろう。
1つ言えるのは、直角三角形Aと直角三角形Bは数学的にはまったく同一の「直角三角形」だということ。そしてたぶん、そんなふうに電子Aと電子Bもまったく同一とみなされる。なぜなら、もし電子Aと電子Bが同一でないとしたら、どこかが違わなければならないはずだが、どこも違うことはありえないと思われるから。
そうすると、酸素の原子Aと酸素の原子Bもまったく同一だろう。同じく酸素の分子Aと酸素の分子Bもまったく同一だろう。
では、自然界ではどのレベルから同一ではないものを同一とみなすようになるのか?
答えはよくわからない。ただこれをめぐってまた改めて思う。直角三角形は数学の概念として存在するのであり自然の物質として存在しているのではない。それと同じく、たとえば電子Aと電子Bもやはり自然の物質として存在しているとは言いがたいのではないか、と。
しかしそうなると、たとえば酸素の原子さらには酸素の分子ですら概念的存在であり自然の物質とは呼べないのではないかと疑いたくなる。水の分子やディオキシリボ核酸の高分子ですら!
とはいえ、赤血球やアメーバといった細胞のレベルであれば、さすがに概念的存在というより自然界の物質だと感じられる。
分子レベルと細胞レベルの間のどこかに境界もしくは飛躍点があるのだろう。
たとえば免疫にかかわる細胞は、ある卵のたんぱく質Aと別の卵のたんぱく質Bのどちらも同一の「抗原」として感知し食物アレルギーを起こす。では、様々なたんぱく質は概念的存在なのか自然的存在なのか?
あるいは、私が感染したインフルエンザウイルスと君が感染したインフルエンザウイルスはまったく同一の物質なのか(少なくともウイルスを作っているさまざまな分子の1つや2つくらいはきっと違っているだろう)
……どうやら、概念的存在と自然的存在はサイズで分かれるのではなく「そもそも別のことなのである」というのが正しいように思われてくる。
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同書をめぐってはすでに少し書いたが、やはり本の中身とはほど遠い。
◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140830/p1
◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140817/p1