東京永久観光

【2019 輪廻転生】

万能眼鏡


Googleグラス。「身につけている目の前の人の視野をそのまま記録し、インターネット上に公開できることもできるのでは、といわれています」と書いてある。

http://www.master-apps.jp/column/google-glass0623.html


ここで2つの、方向としては反対向きの未来を想像する。1つは、人間は、近年これほど過剰に使うようになった言葉や文字を、徐々に捨てる時代に急に入ったのではないかということ。

もう1つは、頭のなかにある言葉や文字をいちいち、こんなふうにディスプレイを眺め かつ指を使いつつスペリングしたり変換したりしながら、表出したり伝達したりする必要が、なくなる時代に入るのではないかということ。

あるいは、2つの未来は融合することもあろうか。つまり、自分のまわりの世界や自分のなかの世界を、把握したり再現したり伝達したりするときに、映像を使うか文字を使うかという2つの手段があるのではなく、映像と文字が一体になる可能性。

その場合、見たもの聞いたものさらには触覚や嗅覚や味覚などもデータ化され即座に言葉に変換されるのだろう。そして驚くべきことに、頭で考えたこと感じたことも、たぶん同じく即座に自動的にデータ化され言葉に変換されるくらいのことは、ありそうだ。

そして、自分のまわりの世界および自分のなかの世界(頭のなかの世界)の両方の、最終の形が、言葉になるのか、それとも言葉とはべつの表象になるのか、というところが、最大の分かれ道ではなかろうか。

私は、少なくともここ10年くらいは言葉のみで生きているといっていいくらいの生活なので、言葉の役割が減っていくとしたら、とても悲しい気がする。のだが、その一方で、こんな言葉みたいな面倒なものと縁を切れるなら、それはそれで清々しいし、争いも減ったりするのでは、とも思う。


そのほか、Googleグラスで思うこと。

(1) 眼鏡というのは人体にとって普遍性のある部品になるのかもしれないなということ。眼鏡は、車のワイパーや傘などと同じく、時代と技術がいくら変化しても、他の方式には進歩していない。Googleグラスは、類人猿や原始人には煩わしい装着物だろうが、人工文明生物である私にとっては眼鏡なんてとっくに体の一部になので、平気だろうということ。

(2)ところがそんなユニバーサルにしてオールマイティのGoogleグラスも、実は英語を平気で聞いたり話したりできないと、スムーズには使いづらかったりするのではないか。そんないやな予感。

いや、Googleグラスがどうかの前に、すでに現時点で、英語を欠く人にはインターネットはきわめて使い勝手が悪いのだろう。

STAP細胞が万能細胞であるごとく、ドルが万能貨幣であるごとく、英語こそは万能記号だから、日本語に縛られる私などからすれば、英語を操る人は、100本の指でスマホを操るくらいの自由自在さではなかろうか。(そもそもスマホを欠く私はもちろんそれ以下の原始人だが)


結論としては「すごいよね」の一言につきる。こうした激変は、たとえばアポロが月へ行きましたといった変化などとは質が大きく違うと私には感じられる。