東京永久観光

【2019 輪廻転生】

私の人生はサイコロを振らない?



たとえば、水素の原子は電子を1単位もつ。その電子は原子核の周囲のどこかに観測される。しかし本来その電子は原子核の周囲の「どこかにある」のではなく「どこにでもある」。物理学ではそんなふうに考えると思う。

つまり、電子がA地点にある水素原子や、電子がB地点にある水素原子や、電子がC地点にある水素原子を、私たちはそのつど経験するにもかかわらず、電子がどこにでもあるような「水素原子の1つの姿」というものを、私たちは想像したり理解したりできるし、しなければならない。

このほどチリの沖で起こった津波は20時間あまりかけて日本列島に到達した。高い波は太平洋を広がりながら移動した。緯度・経度と時刻をまとめれば今回の津波の全体が把握できる。その津波全体の姿は1つしかない。その津波全体の姿において、波の高い場所は、太平洋のどこかにあるのではなく、太平洋のどこにでもある。

サイコロを振ると1から6までのどれかの目が出るが、サイコロにはどれかの目しかないわけではなく、サイコロには1から6までのすべての目がある。

机の時計が6時を指している(なんと早起きか!)。さっきは5時を指していた。そのうち7時を指す。時計の針はどこかにあるとも言えるが、どこにでもあるとも言える。

近所の公園に桜がある。桜は咲いて散る。桜はまた咲いて散る。桜はまた咲いて散る。桜の姿は様々に移り変わるとも言えるが、桜の姿は永久に固定しているとも言える。

私のブログに2014年の記述がある。2013年の記述もある。2012年の記述もある。正月には繰り返し餅を食べ、春先には繰り返し花粉に悩まされる。2015年もそうだろう。

私の人生には過去も現在も未来もなく、私の人生はただ1つの永続した存在なのではないか。

サイコロは立方体だが6つの面に展開できる。私の人生もまた展開図ではあるが立方体でもあろう。

桜は咲いて散る。あなたは咲いて散る。私も咲いて散る(咲いたっけ?)


――なんかものすごいことを思いついた気がして書き始めたのだが、そうでもなかったか。


(とはいえ、サイコロを振らないのは神だけであり、私たちの人生はサイコロを振るしかないとも言える。そして私たちは人生を棒に振る)


*書いてある内容はさておき、サイコロの展開図まで自作するという律儀さを褒めてほしい。