渡した人が山本太郎議員であることがまずいのか、渡された人が天皇であることがまずいのか、渡した手紙の内容がまずいのか。
もし、長嶋茂雄さんが天皇に「脳梗塞の患者を後遺症から救って下さるよう、お手をお貸し下さい」という内容の手紙を渡したとしても、同様にまずいのか?
産経新聞が一問一答を詳しく伝えている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131031/stt13103120300008-n1.htm
このやりとりは、国会議員が靖国神社に参拝した場合に行われるやりとりに、なんだか似ている。
靖国参拝を執拗に糾そうとする左翼的マスコミに対し、私は個人的な右翼的心情からは違和感をおぼえるのだが、今回の天皇への手紙を執拗に糺そうとする右翼的マスコミに対しては、私は個人的な左翼的心情から同様の違和感をおぼえる。
今回、違和感をおぼえるのは、特に次のようなやりとり。
記者)天皇陛下を政治利用したことにはつながらないか
山本「つながらないですね」
記者)なぜつながらないのですか
山本「僕が天皇陛下に対してお手紙を書いたということがどうして政治利用につながるのですか。どのような。どのような利点があるかということをお聞かせ願いますか」
記者)それについて、なぜ政治利用でないと言い切れるのか根拠がよく分からない
山本「今のお話を聞いていただければわかるとおもうんですけど」
記者)政治家だったら何をしてもいいということか
山本「そんなことは一言も言ってませんが」
記者)山本議員は実際にやっていますよね
=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131031/stt13103121000010-n2.htm=
天皇が政治的に微妙な位置にあるのは、靖国が政治的に微妙な位置にあるのと似ている。だから、政治的に微妙であるからといって、政治家の天皇への手紙が100%NGであると認めるのは、政治家の靖国参拝が100%NGであると認めることと、同等のことだと私は思う。
なお私は、山本太郎議員の放射能汚染に関する考えは過剰だと思う。しかしそれもまた、靖国に参拝する議員の太平洋戦争に関する考えが過剰だと思うのと、非常に似ている。だから、どちらか一方しか非難しないとしたら、それにも違和感をおぼえるのだ。
自分の気持ちがわかってきた。最初に「国会議員・天皇・手紙の内容、どれがまずいのか」と首をかしげた。まずいとしたらいずれも同程度にまずいと、自分が感じていることがわかった。また、それらがまずいとしたら靖国参拝がまずいのに似ていると、自分が感じていることもわかった。
何人であろうと、いかなる内容であろうと、園遊会であろうとなかろうと、手紙であろうとなかろうと、「国民は天皇に接触してはいけない」という考えもあるのだろうか? よくわからない。
このように考えてきて、もう1つ、実に微妙な類似に、私は気づく。それは天皇に対する多くの国民の感受性と、放射能に対する一部の国民の感受性だ。「触れてはならない!」「触れてはならない!」
いやもちろん、むやみやたらと触れるものではないだろう。天皇も放射能も。たしかに私も、天皇と放射能は、どちらも同程度に、特別だと感じる。
とはいえ、今私がどうしても言いたいのは――
放射能だけを特別視する人は、天皇だけを特別視する人をどう思うのか。天皇だけを特別視する人は、放射能だけを特別視する人をどう思うのか。私はそう問いたい。
そしてこうも問いたい。放射能を特別視する人を嗤う人は、天皇を特別視する人をも嗤うのかと。そして、天皇を特別視する人を嗤う人は放射能を特別視する人をも嗤うのかと。
日本にとって天皇と放射能はやっぱどうも微妙だよね、という話だ。
もう一回、言い換える。まず、放射能を畏れない程度には天皇も畏れなくていいんじゃないか。そして、天皇を畏れない程度には放射能も畏れなくていいんじゃないか。
これは個人的には、ゆくゆく、「そうか、だったら、神も死も、天皇や放射能と同程度に怖がれば、それで十分か」という気持ちにつながってくるかもしれない。
―― というわけで、私は、神を信じる人やジョン・レノンを信じる人を認める程度には、天皇が特別に畏れるべき存在であると信じる人や、放射線が特別な穢れをもつと信じる人を認めようと思う。そしてまた私は、神を信じない人やジョン・レノンを信じない人を認める程度には、天皇が特別に畏れるべき存在であるとは信じない人や、放射線が特別な穢れをもつとは信じない人を、認めようと思う。