ずいぶん昔の話をするが、なんでみんなあんなに(いやまあ、みんなでもないが)オウム真理教などに引きこまれたのだろう? もしかして、死ぬことがマジに無意味でなくなるような境地を、冷静な思考のままで、マジに得られたりしたのだろうか?
もし本当にそうなら、それはすごいことなので、今からでもオウムに入ってもいいと思ったりするが、でも実際そのような境地が得られるものであるようには、まったく思えない。
いやそもそも、そのような境地が得られるものなど、この世にあるはずがない。もしそんなすごいものが本当にあったら、たいていの人が入信してしまうだろう。だが、たいていの人が入信してしまうような団体は、やっぱりこの世には存在しない。
なんでこんなことを書いているのかというと、次のような文章を見つけたからだ。
≪脳には「自分に関する記述」と「他人についての記述」を区別するタスクをする時、活溌になる部位がある(…)。もしこの部位が停止すれば、まさに、自分と他者の区別ができず、対称性が 回復し、だが、意識はあるという状態が起きうる。その場合、人称性と意識の問題は分離するだろう。》
《… 脳の意識可能な範囲を大きく変更できるなら、それが潜在的に持っていた非常に複雑な感覚を開示することは、我々の死生観を変えうるかもしれない。我々は、生理的に死の恐怖を捨てうるのだろうか。》
西川アサキ「「この緑」をどうするのか?」(「現代思想」六月号)の一節とのこと)
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130605
これを読んでいて、「冷静な思考のままで、死ぬことがマジに無意味でなくなるような境地」というなら、これじゃないかと、ふと思ったのだった。
まあしかし、夜中の3時半だし、仕事で精神が疲労しているし、そんなすごいことが、だからこの世にあるはずはないのだ。
そういえば、もう1つあった。中島義道『哲学の教科書』を久しぶりに読んだのだった。この本だけが、死んでしまうことのどうしようもなさが、本当にどうしようもないのだということを、はっきり見ている。この本は、だから、死ということをマジに考えるときに、マジに参考になる。
ついでにもう1冊すごいと思った本。『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ』(中村仁一)。
この本は、いろいろおもしろいし、すごいのだが、最も感銘を受けたのは、潔く死ぬ姿を見せることは、年老いた者の最後のつとめだ、といった指摘。
私はそこを読んで、「死ぬのは100%悪でもない」といえる理由を、生まれて初めて見つけた気がした。
《なぜ、死ぬのががんがいいかについては、2つの理由があります。
一つは、周囲に死にゆく姿を見せるのが、生まれた人間の最後の務めと考えているからです。しかも、じわじわ弱るのが趣味ですから、がんは最適なのです。》
《現在、圧倒的に多い、その過程の見えない病院死は、非常にもったいない死です。また、“最高の遺産”ともいえる、死にゆく姿を見せたくないというポックリ死希望者に至っては、ケチの極みといってもいいと思います。》(p96)
140文字で、この世の本当の真理というか、本当の幸いというか、そういうことが言い切れたら、それこそもう死んでもいいのかもしれない。
というか、なんかこの、140の枠を、自分の純粋な考えが埋めていくときの心地よさというのは、ちょっとこれまで経験したことのない境地だ。
ひたすら140文字のつぶやきを続けながら、そのまま即身仏になっていくのは、ちょっと楽しいのではないか?
……さて、ちょっと寝るか。