むかし世界史の授業で「領主や教会に代わって国王が人々を統治するようになりました」という話は、どうもイメージしにくかった。
グローバル化という話になじめないのも同じことだろう。
しかし、今また、人々が実質的に支配され依存もしようとしている力の源泉や機構は、たとえば「日本」「韓国」から、たとえば「トヨタ」「ユニクロ」「サムソン」へと、移り変わりつつある。
あるいは「日本」から「マッキントッシュ帝国」かもしれないし、もちろん「はてな共和国」でもいい。
私たちは世界史の新しいトピックを生きているのだ。山川世界史用語集なら重要度11。
ここ10年ほど、ずっと気になりずっと考えずっとブログにも記しているテーマがいくつかある。「インターネットで人間はズバリ進化してしまったね」とか、「言語を使う私と言語を使わない猫とで世界はどれくらい違っているのか」とか、「死んだら終わりだけど本当にそれでいいのか、宇宙よ」とか、いろいろ。
「国家・国民とは何か? なんて思案しているうちに、あれあれ国家とか国民とか消えていこうとしていないか、どうするんだ、こりゃ」というテーマも、どうやらその1つのようだ。
骨の髄まで身にしみていたはずの「日本の私」「私の日本」。それがなんと、じわりじわりとではあるが、淡く薄くなっていく…
言い換えれば、個人ひとりひとりに立派な人格や人権があることを認めてもらえた幸福な世界史は、すべての地域とすべての時代で味わえるものではなかった、ということだ。
流動化する64億の砂粒。
◎参照項は無数にあるとおもうが、さっき目にとまったのは:
http://togetter.com/li/499897
内田樹さん朝日新聞寄稿(5/8/2013)についての大石哲之さんツイートまとめ
《たとえば金融なんかはそうで、もはや、国家がコントロールできる役割はほんのすこしになってしまっているのが日銀の話でも露呈してしまった》