たとえば、きれいな海を観たりうまい物を食べたりしている時に感じている幸福と、後日それを振り返った時に感じている幸福とは、まったく別ものである――
ダニエル・カーネマンが『TED』のレクチャーでそのようなことを述べている。
◎http://www.ted.com/talks/lang/ja/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory.html
自分の人生が「幸福だった」と思うかどうかは、その時々に「幸福だ」と思っていたかどうかに、実はさほど依存しないというのだ。それぞれを「記憶の幸福」「経験の幸福」と呼んでいる。
年末年始、適当に海外を旅行していて、きれいな海やうまい食べ物はたしかにあったけれど、ストレスや怒りもそれを上回るほど繰り返されたはずなのに、帰ってきた今となれば「ともあれ楽しかったかな」という思い出が出来上がっている。そんな不思議を今回も味わっている私としては、とても納得できる話だ。
こうした「記憶の幸福」をいかに積み重ね「記憶の自己」をいかに作り上げるかこそが、幸福の鍵であるとカーネマンは言いたいようだ。
*
なお、レクチャーでは次のような問いかけがある――
休暇が終わった時にその記憶が完全に消し去られ撮影した写真もすべて破棄されるとわかっていたら、あなたはその休暇をとりますか?
仮想の質問とされているが、私たちにとって案外そうではない。
旅先で撮影しまくったデジカメのデータが破損してしまうような悲劇は十分ありえる。311の津波ではアルバムや日記帳のすべてが流されてしまった人もいたことだろう。
しかしもっと問題なのは、旅行であれ何であれ、自分が死んでしまえば、あらゆる経験も記憶も完全にゼロになるという事実ではなかろうか。しかもこれは私たち全員が、遠からず、必ず直面することなのだ。
それなのにどうして私たちはひどい悲嘆と絶望に襲われないのだろう。不思議といえばこれこそ不思議だ。おそらく「そんなこと考えてもしかたないよ」ということで、今年もよろしくお願いいたします。
究極、「生きてもしかたがない」と言いたいし、「生きなくてはしかたがない」とも言いたいのだ、私は。
「旅行して何の得があるか」という気持ちと「旅行しなくて何の得があるか」という気持ちの両方から責め立てられているのと同じようなことだとおもう。
*
ダニエル・カーネマンはノーベル賞受賞者。行動経済学の解説本でよく参照される。
◎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%83%B3