本ばっかり読むのは、酒ばっかり飲むのと似ているか。ストックが切れると困ってしまう。(酒も図書館で借りられるといいのに)
ツイッターしかしないというのも、パチンコしかしないというのと似ているのだろう。
*
ピンチョンの『逆光』は20世紀になったばかりのアメリカが舞台で、マールという人物は最初 写真師として登場するが、やがて鉱山技師に、さらには映写技師へと転業する。様々な発明が世紀の変わり目を彩っていたことがわかる。
21世紀への変わり目が将来こうした小説に描かれるなら、何が題材になるのだろう。やはりインターネット? グーグル、ツイッター、スマートフォン? 20世紀は極端な時代だったのだろうが、21世紀もなかなかどうして極端な時代だ。
マールに錬金術的な志向が一貫しているところも面白い。そこには電磁気学やエーテルといった当時の先端物理学が絡んでくる。時間旅行を探究する国際会議も大真面目に開かれているが、1905年にアインシュタインが相対性理論を発表したことが関係するのだろう。
現在に当てはめれば、ヒッグズ粒子とか超ひも理論か。
写真や映画や相対性理論ほどわくわくする何かを、われらが21世紀は作り出しているだろうか。(妙なことに、どちらの変わり目にも爆弾テロは頻発している)
ちなみにマールがアメリカ放浪の途中で腰を落ち着けることになる映画館は、教会を改装したものだった。
《田舎の映画館の多くがそうだが、ここもどこかの宗派の教会――結局、小さすぎて牧師一人の生活を支えられなかった教会――を改装した建物であることにマールは気づいた。それは映画の観衆とテント集会の間に大きな相違があるとは考えないマールにとって納得がいく応用だった――自らすすんで話の上手な人のまじないを受け入れるという点では同じなのだから》
世紀の変転といっても常に、間に合わせのにわか仕事の連続がただあるのかもしれない。
*
それにしても、『逆光』を、あいかわらず毎晩じつにちびちびとたしなんでいる。まるでかつての舶来洋酒のごとくだ。
*
マールの怪しい妄想がもし21世紀初頭に為されたら、こんなかんじではないか?
メールもブログもツイッターもフェイスブックも何もしない日というのは、情報という場においては私はなんらイベントを起こしていない、完全に静止している。原子や分子が積み重なった物質の世界において私の存在が消えることはないが、この世界が本当は情報の世界だったとしたら……
この世界の本当の姿が明白だとは言い難い。空の青さや冬の寒さ、あるいは時間や空間そのものだって、私たちの意識に合わせたイリュージョンだろう。世界は「ビッグバンから始まった」とか「クォークなどで構成されている」とかのイメージも、世界は「情報として形成されている」と同じくらい怪しい。
根本には「140字の波動」だけがあり、この世界はみんなそれが積み重なって出来ているんだよ!