東京永久観光

【2019 輪廻転生】

そんな大それた報告ではない

ツイッターのタイムラインを眺めるのは新宿の繁華街を歩いているようで、何処まで行っても飽きないのだが、それはつまり何処まで行っても満足に至らないということだ。たとえば表参道や下北沢や吉祥寺を歩いているときのようなチャーミングな出会いが滅多にない。

ツイッターはてなブックマークのチェックだけを繰り返して終わる夜、あるいは終わらない夜。そんな日々。いや日々と呼ぶほど短くない。そんな時期あるいは時代というべきだ。そうしてそのように終わらない私の人生は、いつしかきっとそのように終わるのだろう。

というわけで、長く中断していたトマス・ピンチョン『逆光』上巻を最初から読み返すことにした。


逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)


世界とは何であるのかの解答が、この小説には書かれているのではないか。解答ではないとしても、少なくとも世界がいかなる謎であるのか、世界がいかなる不思議であるのかは明かされるに違いない。2、3ページめくっていると、そんな思いにかられる。

『逆光』を読むのは、新宿を歩くのとも下北沢を歩くのとも異なっている。どこか遠くの知らない場所、たとえばユジノサハリンスクとかウランバートルとかキエフとか中国雲南省を歩いている感触に似ている。

それはつまり、「これを読みながら今しも世界の核心に近づいているのだ」という信念だ。そしてそれは「ここを歩きながら今しも世界の核心に近づいているのだ」という信念に似ている。

しかしそのような信念に根拠は何もない。裏切られるに決まっている。実際に裏切られてきた。こんなものを長々と読んで、こんな所を長々と歩いて、またしても人生の無駄を積み重ねるつもりか。そうした核心的な疑惑もまた最も深い場所から立ち上ってくる。その点においても長い小説と長い旅行はそっくりだ。

とはいえ……

たしかに、この世界には始まりも終わりもない。少なくともそこに行くことはできず知ることすらおそらくできない。しかし、小説には始まりと終わりがある。読み始めることが可能だ。そして読み終えることも不可能ではない。小説はまた旅行と違ってルートに迷うこともない。一直線に進めばよい。


……読む本が大袈裟だとブログも大袈裟になる。