東京永久観光

【2019 輪廻転生】

映画DVD鑑賞記録 2011年 (4)


遠雷/根岸吉太郎(1981年) 
 遠雷 [DVD]

30年ぶりにみたが、やはり傑作。

80年代に中途半端に都市化していった田舎でウダウダしていた若者のことなら、私はよく知っている。だから断言していい。そんな兄ちゃん姉ちゃんなんて類型的で保守的で思慮深くもなく、ただただつまらない。ところが、永島敏行と石田えり そしてジョニー大倉に憑依した、そのどうしようもない若者たちは、なぜかことごとく素晴らしい輝きを放つ。

石田えりの、ちゃっかりとしてあっけらかんとした姉ちゃん。永島敏行の、ほとんど考え込むことも悩みぬくこともない兄ちゃん。彼らにすれば、男と女がくっつくことはこの世で最も簡単かつこの世で最大の快楽と幸福であることは自明。「みんな楽しくやってるわよー」これは石田えりの台詞。そうだあのころ、たぶんみんなそんな感じで楽しくやっていた。私はもうちょっとヘンなぐあいにもがいていて損したかもしれない。

クレジット前のラストシーンが妙に生っぽくて素晴らしい。異様に生臭いといってもいい。永島敏行の自宅で石田えりとの婚礼の宴会がグダグダ続いたあげく、永島は物干し場に立ち唐突に歌を歌い出すのだ。それがまた桜田淳子の「わたしの青い鳥」というバカバカしい選曲。こんな歌など魅力はゼロだとおもって忘れ果てていたが、この映画ではそれがやはり100点の輝きを放つ。永島と石田は演技を超えて夫婦になることが本当に嬉しくて泣きそうにすらみえる。いったいどういうことだ!

ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』のラストシーンも、たしか長々しい歌がやけに印象的だったが、それと似た不思議な感動をおぼえた。

日活ロマンポルノから一般映画に転じた根岸吉太郎監督が80年代に撮った作品は、どれも良質だったと記憶する。『遠雷』以外に、『俺っちのウエディング』(1983年)『探偵物語』(1983年)『ウホッホ探険隊』(1986年)『永遠の1/2』(1987年)をみている。またみよう。楽しみだ。

ところで、『遠雷』をもう1回みたところ、複雑な人間関係や仕事などの背景を1つ1つ順に織り込みながら場面が展開していて、ムダがないなと思った。(映画とは限られた時間で進行するものだから当たり前かもしれないが)


ブレードランナーリドリー・スコット(1982年)
  ブレードランナー ファイナル・カット [DVD]

巨大ビル群の不気味な夜景。妖しい広告を映し出す飛行物体。騒がしくごみごみした市街地。まがいものの東洋趣味。屋台のうどん屋。「レプリカントが動き回るなら、こうでなくちゃね」 今となってはふつうにそう思う。しかし、そもそも「近未来=荒廃・混沌」というイメージをわれわれに植え付けたのが、まさにこの映画だったという。…そうか、そうだっけ!

ともあれ、その未来都市の造形はなにしろ圧倒的。この映画最大の魅力はそれだったのだ。久しぶりにみて思い知らされる。

もちろんストーリーも面白い―。レプリカントの命や記憶、その不可解さを思うとき、人間の命や記憶の不可解さをも見つめることになる。そうしたSFのもたらす、根源的な問いの一つがこの映画には埋め込まれている。それは言うまでもない。

ヴァンゲリスの音楽も、ふだんBGMで聴くと大袈裟なのだが、この映画を見ながらだとぴったり合う。レイチェルが自分はレプリカントだと悟った瞬間に響いてきた悲しげなピアノも絶妙だった。

なお今回は、町山智浩ブレードランナーの未来世紀』がきっかけで鑑賞した(べつに新しい本ではない)asin:4896919742

町山は、この映画は「ポストモダニズム」を体現していると書いている。ポストモダニズム? たしかに当時あきれるほど流行した用語。だから「なんだまたそんな話か」と引きそうになる。ところが町山は、ワーナーブラザースロゴマークがすっきりしたデザインからゴテゴテしたデザインに変わった現象を、ポストモダニズムの端的な例として挙げる。感動的なほどわかりやすい解説ではないか。ブレード・ランナーの都市や建物が、時代や国籍をごっちゃにしたようなデザインであるのは、まさにそれなのだ。それに絡み、ボードリヤールの用語「シミュラークル」についても、ポルノのセックスと現実のセックスとでどっちが現実かなんてもうわからないよね、といった身も蓋もないが誰もがうなずける説明をしているのも、みごとだと思った。

少し前のことだが、町山氏はツイッターで「○○の映画でベスト3は何ですか」という不特定の人から次々に寄せられる質問に、早撃ちのごとく即座にかつ明快に答えていた。これは余人をもって代え難い。「素人が納得できる映画評論」を標榜していることの何よりの証だと思った。

ちなみに、うどんを食べているハリソン・フォードのところに国籍の怪しい男がレプリカント狩りの依頼を伝えにくる場面で、男は意味不明の言葉を発するのだが、それは実は「Ni omae yo」(おまえ/に/用)という日本語だという解説も、へえーそうなのか! だった。レプリカントの持っていた写真に、フェルメールの絵と同じ曲面鏡が使われているという指摘も、同様。

ブレードランナー』と『未来世紀ブラジル』はしばしばセットで記憶される映画だろうが、私にとっては『未来世紀ブラジル』こそカルト的で好ましく、『ブレードランナー』はちょっと陳腐な位置づけだったのだが、今回みなおして甲乙つけがく思うようになった。

未来世紀ブラジル 感想は → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090515/p1

ブレードランナー』を好きになれば、謎そして謎解きサイトなどもたくさんあり、楽しみは永遠になる。


監督失格平野勝之(2011年) *これは映画館にて

ドキュメンタリー映画。カメラを向ける対象はAV女優だった林由美香さん、そして林由美香とかかわる監督自身。いやそれ以上に、由美香さんへの自らの思いそのものを捉え描こうとしている。ということは、明らかに、撮影する人と撮影される人が同一ということになる。

自分のことを撮影するのと、自分のことを日記に書くのとの、明らかな違いとは何か。自分のある行為について、日記なら後から書くことが可能だが、撮影はそうはいかない点だ。撮影対象が自分であるかぎり、なんらかの行為とその行為を撮影することは、原理的に両立しない。

たとえば、泣く自分を撮影するためには、ただ泣いていてはいけないのだ。カメラを向けつつ泣かなければならない。

自分の本当の愛や本当の憎しみや本当の人間関係を撮影しようとしたら、それらが行われている最中の自分たちにカメラを向けなければならない。それができないなら「監督失格」、といったメッセージが、この映画には込められてもいる。

でも、自分のこの愛やこの憎しみやこの人間関係に、この自分の手でカメラを向けてしまったら、それはもう本当の愛や憎しみや人間関係では無くなってしまうのではないか。…という疑いや怪しさがどうしてもある。素朴で幼稚なことを書いているが、この映画ではやっぱりそのことを思わされる。

監督失格』についてもう一つ言いたいこと。ドキュメンタリーが面白いのは、その話が「普遍性」をもつか、または、その話が「強度」をもつか、どっちかなんじゃないか。…というようなことをふと思った。

そして、由美香さんの恋人でもなく平野監督本人でもない私は、この2人のきわめてプライベートな記録に、あまり「普遍性」を感じることはなかった。

しかし、由美香さんがAV女優であるために、プライベートな恋愛の話でも、一般の恋愛より強度は増しているのだと思う。そして、それよりなにより、今回の作品は、由美香さんが自室で死亡しているのが発見された瞬間に、カメラがたまたま回っていたことによって、強度は最大限に高くなったと思う。

監督失格』に、いろいろ文句をつけたみたいな流れになったが、しかし、ただの観客の1人として平野勝之という人物を一言で形容するなら、やっぱり「しあわせなバカタレ」「あいすべきバカタレ」という言葉になるのだろう。それはこの映画を最大に評価する言葉だと思う。

…というわけで、ドキュメンタリーという営為のなんとなく曖昧ないかがわしさのなかで、なんとなく曖昧なレビューは終わる。

しかしこんなふうに、他人の作ったドキュメンタリーすら徹底して見つめられない者が、ではひるがえって自分自身を、いつの日でもよいのだが徹底して見つめるということが果たして本当にできるのか。これが最も重要な問いだ。そのとき手にカメラを持っているか持っていないかは最重要ではない。

ともあれ、以前『流れ者図鑑』を見て平野監督には少し懐疑的だったが、今回の鑑賞で私の中では平野問題に決着がついた。ただし、「ドキュメンタリーの真実にとってカメラを向けるとは何か」問題はこれからの課題。

http://t.co/pKPyCXKt 『監督失格』予告編(エンディング曲矢野顕子「しあわせなバカタレ」入り)

この『監督失格』をみた日に、松本人志のコント(NHK)も見た。コントが面白ければ面白いほど、演じる人(松本と浜田)自らが笑いをこらえきれず演じにくくなる、というジレンマを感じ、自身の行為と撮影の両立が難しいのとちょっと似ている気がしたのだった。


日本春歌考/大島渚(1967年) 
 日本春歌考 [DVD]

今こんなふうな映画を作れば「いかにも60年代っぽい」とか「いかにも大島渚っぽい」とか言われるだろう。しかし、今こんなふうな映画を誰も作らないのは「単にそう言われるのがイヤだから」なのか。そうではなく、「映画をこんなふうに作ろうなんて誰も最初から思ってもみない」ということなのではないか。そうだとしたら損をしている、または間違っている、と思う。宮台真司は日本映画のウェルメイド化を嘆いていたが、たまにこうしたヘンテコで粗野な映画をみると、その嘆きがありありと実感できる。

私なりに形容すれば、「今という時代を生きる激しさのなかで、今という時代をただ切ってみずにはいられなくて切ってみた、その傷をそのまま見せます」といった面白さがあるのだ。

黒沢清、21世紀の映画を語る』ではお薦め映画がいくつか紹介されていて、ぜひ見ようと思ったのに、そういう映画にかぎって(大島渚『絞死刑』やブレッソン『ラ・ルジャン』)ツタヤにはDVDがないのだった(渋谷にも新宿にも。六本木ならあるのだろうか) かろうじて『日本春歌考』はあったので借りた。


帰って来たヨッパライ大島渚(1968年) 
 帰って来たヨッパライ [DVD]

こっちはもうちょっと軽く作っている気はするが、そうでありながら、ベトナム戦争や日韓問題をあからさまに提示しているところが、むしろショッキングにうつる。やはりウェルメイドとは反対の愚直と乱暴。フォーククルセダーズというトリックスターとこの歌自体のトリッキーなところをそのまま利用しているところも、非常に率直だ。3人の若い姿をみるだけでも面白い。今は亡き加藤和彦の若くほっそりした姿。台詞がほとんどないのがまたテキトウなかんじがして面白い。黒沢本は『帰って来たヨッパライ』については言及していない。


まほろ駅前多田便利軒/大森立嗣(2011年)
 まほろ駅前多田便利軒 プレミアム・エディション(2枚組) [DVD]

松田龍平がいかにして子どもを設けたのか、瑛太がいかにして子どもを亡くしたのか。2人の核にあるエピソードだと思うが、どちらも映像ではなく台詞で示される。それは映画としてどうなのか。親から愛されない少年に、それでも他人を愛することはできると諭すのも台詞。

でも基本的にはとても好きな映画。役者も画面の展開も話の展開もみな素晴らしい。

一般に、小説は文章なので相当複雑な背景も読めばいやでも正確に把握できてしまう。ところが、映画は文章ではないのでなかなかそうならない。だから、見る者は画面に映った物からかなり多くのことを把握せねばならない。言葉で示されないとダメな人は、当然の前提を見落とす。私は勘が悪いのでよく見落とす。

小説原作の映画といえば『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。今おもえば、相当大勢の人物がみな相当ややこしい過去を抱えつつ絡み合う。

たとえば、ナスターシャ・キンスキーがなぜか熊の着ぐるみで暮らしたりしているのにも、そうした複雑な背景がある。しかし、その背景は原作ほど詳しくは説明されない。それは映画だから仕方ない。(というか、アーヴィングの小説は過剰な詳しさに魅力があるともいえる)

では、映画は複雑さや強力さを伝えられない媒体かというと、まったくそんなことはない。文章に依らずとも、小説と同じ複雑さや強力さを小説以上に伝えてくることがある。また、こっちが重要だが、文章では構築しにくいたぐいの複雑さや強力さを出現させることこそ、映画の得意であり本領でもあるだろう。

ところで、便利屋というと、私は1970年代後期のドラマ『俺たちの旅』を思い出す。いわゆる既製社会からはみ出した若者が、自分たちでなにかするかというときは、今も昔もやっぱり便利屋(何でも屋)なのか。ドラマとしても、知らない人物を登場させ奇妙な出来事を展開させるのに、「便利」なのだろう。

しかし、『俺たちの旅』の中村雅俊たちは、今から思えばかなり単純な社会に対してかなり単純な思考によって挑んでいた気もする。21世紀も10年を過ぎた『まほろ駅前多田便利軒』では、社会も思考ももうちょっと複雑だと思われる。我々はそんなふうにだんだん複雑な生を余儀なくされるのだろうか?

俺たちの旅』挿入歌「ただお前がいい」http://t.co/TairItHO 、『まほろ駅前多田便利軒』エンディング曲は岸田繁くるりhttp://t.co/yRWIOxUD 、時代は違うがどっちも同じように好い。


渋滞/黒土三男(1991年) 
 渋滞 [DVD]

公開時にみて感動したし今回も感動した。しかしふと気づかされた。このころの日本には、正月の帰省ラッシュで高速道路が渋滞するくらいしか「問題」はなかったのかも、と。萩原健一黒木瞳の夫婦は、青年期から中年期までさしたる障害もなく人生を歩み、豊かで幸せな家庭を築けている。萩原はどうやら団塊世代で、家電量販店に勤務しつつ、小ぎれいなマンションに住み、自家用車を所有し、子ども2人も不自由なくすくすく育っている。今の日本はもっと根本的につらい気がする。要するにバブルとか不況とかが関係するのか。


 *


もう年末なので、急いで書き留める。まだずいぶんあるが続きはまた。


 **


↑ 映画DVD鑑賞記録 2011年 (3) http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20110927/p1
↓ 映画DVD鑑賞記録 2011年 (5) http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20111218/p1