震災言論、原発言論は、いずれもじつは怒りがモチベーションなのか? 怒りが無ければ考えずツイートもしないのか? 快をよりどころとする言論は存在しないのか?
存在しないことはない。むかついてツイートすることばかりではなく、「そうか!」と気づいてツイートすることがよくある。大げさにいえば「ユリイカ的ツイート」
怒りが言論の動機になることは多く、それを避ける必要もないと思うのだが、言論の目的が、怒りをただぶつけることであったり、相手を「叩きのめす」ことであったりすると、たしかにとてもいやな気分になる。
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その一方で――
自分が本当は何に怒っているのかを明らかにしたい。フジテレビや韓国が本当に腹立たしく憎らしいのなら、その行動を肯定する。でもじつはもっと個別の卑近な怒りであるのに、それを見つめず、フジテレビや韓国に投影しているだけなら肯定しない。
個別の怒りをパブリックな怒りに擬装していると強く感じるときは、不快だ。それが多いか少ないかで、その人の「株」は日々上下するように思う。そういうことにわれわれは案外敏感なのではないか?
◎パブリックな怒りかプライベートな怒りか、はっきりさせたい。
◎パブリックな怒りよりプライベートな怒りのほうが重く感じられる。