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【2019 輪廻転生】

まちがったことをするサルはいない


被曝を重視する理論も被曝を軽視する理論も、それが正しいかどうかが気になる。少しでもまちがっていれば共感できない。完全に正しい理論を探したいと思う。

ところがふしぎなことに、被曝を重視する行為や被曝を軽視する行為は、どちらもいくらか正しいように思える。どちらも完全にまちがっているとは思えない。人の行為は、どんなものでも その人なりの心情や動機や背景に支えられていて、そこにいくらか共感できるところが見つかってしまうからだろうか。

(もちろん心情や動機や背景は立派なものとはかぎらない。しばしば偏っていたりいい加減だったりする。しかし、その偏りやいい加減さのほうに、私はふと共感してしまう)

「まちがった理論」はあるが、「まちがった行為」というのは、ないのではないか。

科学主義と反科学主義。あるいは原発主義と反原発主義。どちらに対してもむかつく日があるのに、どちらに対してもうなずく日があるのは、そういうことだろう。

私たちが日々ツイートする「考え」がまちがっていたとしても、それをツイートした「行い」には、すべてなにかしら「わけ」があった、ということだ。