朝から晩までモニタや携帯を眺め文字ばかり追っている私たちは、山や川を眺め獲物ばかり追っていた祖先とは、もはや同じ生物とは思えない。
体はもちろん変わらない。脳の使い方の話。遺伝子の展開のさせ方ではなく、情報の展開のさせ方の話。
遺伝子の展開のさせ方の話をするなら、人は人の祖先と似ているだけでなく、人や猿の共通祖先とも似ている。猫や犬の共通祖先とすら似ている。しかし私たちの脳の展開のさせ方=情報の展開のさせ方の話をするなら、人だけがあまりにも特異にみえる。
とはいえ、言葉を複雑に操るようになった人の脳が、猿の脳とあまりにもかけ離れてしまったのと同じくらい、モニターと携帯でツイートする私たちの脳は、人の祖先の脳とあまりにもかけ離れてしまったのではないか、という話。
しかしきょうふと思ったこと――。人の脳は言葉を得ることで思考の展開がおそらく相転移的に拡大した。しかし思考の展開は本当に自由になったのか。案外、言語に縛られない脳に比べ、言語に縛られる脳のほうが、かえって不自由だとは言えないか。
まったく同じことだが、文字に縛られなかった時代の言語と脳に比べ、文字に縛られるようになった時代の言語と脳のほうが、かえって不自由だとは言えないか。さらに、書物に縛られなかった時代の知性に比べ、書物に縛られるようになった時代の知性のほうが、かえって不自由だとは言えないか。
さあ、ここまで進んでくると、結論はもう明らかだ。私たちは朝から晩までグーグルやはてなブックマークやツイッターに沿って言語と脳をプロセッシングしているのだが、本当に私の脳は、今モニターに出ている内容のことばかり考えようとしていたのだっけ? ぜんぜん違うんじゃないのか!?
私たちの言語と脳は、インターネットに一日中縛られて不自由(かもしれない)。もっと脳と言語をのびのび使いたい。それにはモニターや携帯を離れ山や川を眺めるほうがいいのかもしれない。(都心では山も川もないので、ビルや電車でも眺めるしかないが)
なんだかずいぶん凡庸な結論になったか…
やっぱり結局、ツイッターのタイムラインの総合知のほうが、私の脳の総合知よりはよほどマシなんじゃないのか? いやそれはそうなのだが、いくら凡庸な結論であっても、私の脳が1人で自由に考える時間を今しばし持ったことがポイント。