石原は当選するだろうという諦めが私にはあった。
原発は存続するだろうという諦めが私にはある。
しかし、諦めとは絶望を意味するわけではない。
石原が明日からまた知事でいるからといって、明日から私の生活がもはや楽しくなくなってしまうというほどのことではない。同じく、原発が存続するからといって、明日から私の生活がもはや楽しくなくなってしまうというほどのことではない。
だから、私は石原も原発も、それほどのことではないと思っているにちがいない。
というか、私には、もっと切実に、諦めきれないなにかがあるのだと思う。いや、どうせ無理だ、難しいのだと諦めてはいても、それでもどうしても諦めきれないことがあるのだと思う。
いや、それは私だけではなくて、多くの人が、ほんとうは、そういう何かをもっているのではないか?
原発に対する思いが、そのように切実に諦めきれないものであるのなら、それを歌にしたり、そのためにデモをしたりするのは、当然の行為だろう。歌でもデモでも、いろいろ暴れるのでも、やけ食いでも、逆に引きこもるのでも、いかなる運動でも、そういう意味であれば、共感できる。
「本当に諦めきれないものって何だよ?」
私にとっては、単純に死んでしまうこととか、年老いていく一方であることとか、そういうことだ。あるいは、おそろしい貧困やおそろしい病苦に、のたうちまわらないといけない可能性だ。
そんなネガティブなことばかりではない。
「宇宙はなぜあるのだろう」とか「私がいるのに神がいないなんてどういう理屈で説明すればいいのだろう」とか「言語っていったい何だろう」とか「猫はどんなかんじなんだろう」とか、答を諦めているにもかかわらず、それでも問うことを諦められない疑問だ。
「宇宙ってどうなってんだデモ」とか高円寺あたりであったら、私は行く。「ずっと言語だったんだね」とかいう歌があったら、拍手喝采、というか、そういう歌なら、私が作りたい。