「コンピュータは過去ではなく未来も示せる。シミュレーションやライフログによって」
廣瀬通孝氏(ヴァーチャルリアリティ研究)がツイッターでそんなことを言っていた。
関連のUストリームでは、こんな予測が可能だとも。
「あなたはこれから400円くらい使うでしょう」
「過去がいつでも体験できるようになると、それは現在になる。未来もそうなるかもしれない。空間も、どこでも体験できるようになると、すべて ここ になる」
*
その少し後日。
坂本龍一の北アメリカツアーライブと、以下のシンポジウムが、Uストリームでちょうど同時刻に中継され、私は同時にブラウズしつつ、あれこれつぶやいていた。
http://www.ustream.tv/channel/skmt09#utm_campaign=twitter.com&utm_source=6117744&utm_medium=social
posted at 13:28:30
出かけることはどっちかにしかできないわけだが、見聞きすることはどっちも同時にできる。(どっちにも出かけなくてもできて、むしろ、どっちにも出かけてないから、両方を平等に冷静に見ることができる、とすら言える)
USTに映っている人が、考えていることをツイートすれば、それすら、私は部屋にいてキャッチできる。
ほとんど神になった気分だ。
*
廣瀬氏のツイートや上記ustのシンポジウムのテーマは、「人間の行動自体をコーディングできる」という話だ。
つまり、たとえば通販サイトなら、「このようにデザインしたら最も売れる」というデータなど、もう朝飯前にわかる、ということだろう。
人間が最も心地よいと思う楽曲(コード構造、メロディー、ボーカルの音質、楽器構成、歌詞、長さ)などということも、もう分かっているのではないか。
インターネットは、無数の被験者を対象にした多様な実験が簡単にできることを可能にした、といった状況なのかもしれない。
そのサービスを使っている無数のユーザーの反応が、即座にそのサービスのプログラムをどんどん変容させていくような、プログラム。
ただし重篤な問題は、自分の詳細なライフログを、私は知らないのに、グーグルのサーバだけが知っている、という状況だ!
これはまさにあれだ。iGoogleにつないでいると、「検索するより先に、検索結果を知らされてしまう」という、楽しい夢の世界。
言い換えると。昨日までに読んだ他人のツブヤキや、昨日までに書いた私のツブヤキは、完璧に解析できるようになるので、その結果、私がこれから書くはずのツブヤキが、私がいちいち打ち込まなくても、勝手に表示されている、と!
……輝かしい人生だ。
ベーシックインカムのおかげで、人類の大半が仕事なんかしなくてよい輝かしい未来を夢見るようになったが、仕事以外のことだって人間はもうしなくてよくなるのだ!!!
天気予報と、主婦の買い物予報や、あるいは、上司の機嫌予報の、どっちが難しいか、というくらいのことを考えるほどの時代になっていくのだろう。
「輝かしき未来予報」
「Physiome project」
行動や思考のパターン解析と予測。言い換えれば、脳の動きの最終的な結果の解析と予測。
同じように、ゲノム全体の動きの結果が、私全体なのだから、そうした解析や予測も、ゲノムから可能ともいえる。
遺伝子全体の動きの捕捉・解析・予測と、 脳の神経細胞全体の動きの捕捉・解析・予測と、どっちも最大限に大変に思えるが、どっちがまだしもやりやすいか、という興味深い問いが出てくる。
Googleのサーバが、個々人のデータを集めて、どんどん賢くなるのと、個人がGoogleのデータを使って、どんどん賢くなるのと、その競争か?
生活や人生にGoogleの影響は甚大で、Googleは私の生活や人生のシミュレーションすらできるが、私の生活や人生を意識的に体験しているのは結局私しか(原理上)ありえない、というとことが、最後の砦になる。
私が死んだあと、コンピュータ上にその記憶や思考が継続したとき、もしも意識がそこに浮上するようなことになったら、私のこの意識は継続するのか、というSFでしかなかった問いが、マジの問いになる時代が、ほんとにマジに来るのかも。
*
それにしても、ツイッターやUSTが身近になってくると、「なんだ、世の中では人と人はけっこう交流しているじゃないか」という発見がある。ブログや2chは「ひきこもり系」に親和的だったのに…。
「ネットがますます普及してきたんだから、みんなそんなに外に出るなよ!」
《リアルに集まらずに並列的に》(上記のシンポジウムで示された「ウェブ学会」の考え方)
…ほらやっぱり方向は「リア充」ではないのだ!
だって、頭を使うためだけのために体を使うのは、もったいない、とも言える。(体を使う=シンポジウムや学会の現場に出かける)。体は散歩とか球技とか演奏とかそういうことに使うほうが、体の本領に近いはず。
「UST30分も論文とみなす」という考えもあるらしい(同じくウェブ学会)
体が止まっていないほうが頭もよりよく動く、という実感はあるのだが。
人体というインターフェースのあまりにも多彩な可能性に、まだまだパソコンやケータイやネットはかなうまい、ということでもある。
体を動かすというのも、しかし、ネット時代には、iPadに触ってみるとか、デジカメに録っておくとか、TwitterのIDをとってみるとか、なんかそうした積み上げとしての体の活動のほうが、メインになっている気もする。
*
シロアリが1匹を思い描くのと、シロアリが10匹を思い描くのと、シロアリが100匹を思い描くことは、われわれはまあ問題なく出来る。
シロアリが1万匹と、シロアリが10万匹の違いは、イメージできるだろうか?
それ以上に難しいのは、フォロワーが1万人と10万人の違いかもしれない。そういうものを、われわれは、直感的なイメージとして、あるいは身体的な体験のイメージとして、きちんと思い描けるのだろうか?
内緒でキスをするのと、人前でキスをするのとでは、意味が異なる。マスコミのニュースカメラの前でキスをするのは、またその両方と大きく異なることを、われわれはもう十分に実感してきた。今度は、それをネットで行うということが、さらにまた決定的に大きく異なるのだという実感。
私の脳は、あまりにも無秩序で膨大で複雑な情報を常時並列で処理しているはずなのに、なぜ私の意識や生活やさらには日本とか世界とか宇宙とかまでも、こんなに「うまくまとめて」把握できているのだろう? Amazing!
だからまあ、私の脳と同じようなことを、インターネットの無秩序で膨大すぎる情報も、みんながよってたかってあれこれやっているうちに、「なぜかうまくまとまってるよ!」ということが起こる。これまでもそうだったのだから、これからもそうだ。私はだらだらネットしてればそれでいい(ベーシックインカムで)
*
「美術館においてあるアート作品は飽きる。ところがツイッターは飽きない」(鈴木健/上記USTのシンポジウムでの発言)
「芸術とは脳に傷を付けることだ」というのと対になるくらい、重大な指摘だなあ。http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/05/post-72a7.html
芸術のインパクトを理解するには、オーダーが違うほどの複雑性がそこにあることをまず知らなければならない、といった話(池上高志/同)
「可能世界や自己言及は哲学ではなく実装の課題になるのかも」(趣旨・池上/同)
*
言語はリアル世界の象徴だということはよくわかっているわけだが、リアル世界の個物が言語世界(概念や思考など)の象徴たりうる、ということもあるのだ。これはとても面白いのではないか。(ウェブ学会が孫さんを呼びたいという話を聞いて)