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【2019 輪廻転生】

ツイッターは言語の先祖返り?


『10万年の世界経済史』という本は、原始時代から18世紀ごろまで1人当たりの食い扶持(もしくは所得)は「ほとんど増えていない」とみている。生産性が上がっても人口が増えて1人あたりの分はすぐに減ってしまうという単純なカラクリらしい。

そして産業革命によって、その事情は一変した(西欧などを中心に)。

それにしても、ここでもう一つ驚くべきは、産業革命の前と後でこの世界の様子があまりにも急激に変わってしまったこと自体だろう。

イメージとしては、人類は100の階段を一歩ずつ昇ってきたのではまったくなく、ほとんど平坦だったのに、あるとき100段をたった一歩で昇った。(いやこんなこと、いちいちたとえなくてもわかるか)

で、何が言いたいかというと、そんな過去の事例を踏まえると、インターネットという革命(これは結局コンピュータという個人の脳を外部化したような機械の発明と、さらにその外部化された個人の脳がことごとく「つながった」という点に本質がある)も同様だよね、ということ。

産業革命はエネルギーの革命だったとだれかが言っていたが、今回のはいわば「情報の革命」なので、目に見えて気づくというかんじにならないところがあるが、この情報のありようの変化は(たとえば1人あたりが処理する情報の量自体だって)どれほど「すごい」といっても足りない。

映画『2001年宇宙の旅』の、初期人類が放り投げた骨が宇宙船に変わるシーンを思い出す。

(いくらか関連すること「五感の変化は意識の変化だから そりや大変なことだよ」という以下のつぶやきは、いやほんとに重大なことを指摘している。http://twitter.com/#!/_anohito/status/26813957982

この世に産まれてきた人々すべての中で、18世紀の産業革命のころのイギリスあたりに産まれた人は少数しかいない。でも、20世紀末から21世紀初めの今回の革命の時期には私は産まれていた。それはまったくの偶然だからラッキーというしかない。

私が18世紀に産まれなかったり20世紀に産まれたりしたのが偶然であるだけではない。産業革命が18世紀に起こったのも、それまでの流れ(経済史)をさほど踏まえたとはいえず、いきなり起こったようにも見えるように、今回のインターネット革命も、まあ唐突だった。1995年〜

直立歩行するサルが繁殖しはじめたのも、そんなように「いきなり」だったのだろうか。ああそういえば、もっと賢い私たちが一斉につぶやきはじめたのも、とてもいきなりだった!

今回の革命は「顕在化」というキーワードがすこぶるふさわしいとずっと思っていた。当初は「秘匿されるべきだった日記の公開」。さらに時代はどんどん下り、ツイッターなんてのは「うつろいゆく意識とか自我のすべてが時々刻々 顕在化されている」といっていいだろう。


 
 *


少し話を方向転換。

これほど膨大なつぶやきで、私たちはいったい何をしているのだ? 

つぶやかれた個々の内容がどうであるかではなく、どうやら、「つぶやくこと自体で、意識や記憶や思考、さらにいえば生活や交友を、自己コントロールしている」とみるといいのではないか。

われわれの言語は要するに何をしているのかというと、「他人の脳を操作しているのだ」という見方がある。脳研究者の澤口俊之がそんなことを書いていた(さんまのテレビ番組で大活躍。あの番組はしかしおもしろい。門倉貴史もおもしろい。小杉のツッコミがまた最大限に素晴らしい)

たしかに、他人の脳(つまり他人の意識や行動や取引や財布や…)を手なずけたりするためにこそ、われわれは言語を毎日つかっている。そりゃもう必死。哀しい…

それと同じくらい必死で私が今しもやっているのは、自分自身の意識や行動を、なんとかなだめたり、はげましたり、あるいは確かめたり先に進めたりするためなんじゃないだろうか。

今しも、なにがしかの言葉をつぶやき、それを眺め、さらにまたつぶやいているのは、自分の心や頭(自分の生活の といってもいい)のコントロールをしているのだ。そうおもうと、すっきりする。

そして、これは独り言のようで独り言ではない。つぶやきは顕在化されており、誰でも閲覧可能。だから、そこでは、自己のコントロールだけでなく、願わくば他人のコントロールもと狙っている(あわよくば社会のコントロールすら)

実際そうなっていると感じないだろうか。あなたの考えやあなたが読む本や食べる物は、他人のつぶやきによってどんどんコントロールされている。そしてもちろん、次につぶやかれるあなたの言葉もまた、この膨大なつぶやきの連鎖や集積の渦に巻き込まれないわけにはいなかい。

経済にはミクロとマクロがあるという。マクロ政策というのもある。日本の景気は長い間とても悪く、日銀もいよ金融緩和に本腰を入れ始めた。さて、言語経済はどうか。

明らかにバブルだ。

バブルとは物より金が増えるのを言うのだろうが、その関係にならえば、単に「言葉がものすごくあふれていますね」というにとどまらず、意味より言語のほうが多くなっているということも言える。(言い換えれば、中身より伝達が多くなっている。内容より情報のほうが多くなっている)

マクロ政策的には「言語緩和」ではなくむしろ「言語緊縮」のほうをちょっとやってもらったほうが、ありがたいのかもしれない。総量としての緊縮を。

リアル日本において、今1万円あれば何でも買える。しかし、ネット日本においては、今1万語くらいじゃ何も言えない、ということだ。激しいインフレ。

そのなかにおいては、現代詩あるいは俳句などは言語のコストパフォーマンスとして非常によいといえるか。


 *


さてまた少し話はかわる。

人類が「空気ってものがあるねえ」と気づいたのはいつだったのだろう。というか、空気を独立した何かとして明瞭に認識できるというのは、もしかして引力の発見くらい、たいへんなことではないのか。

同じようなことで、私たちは「意識」とか「クオリア」というようなものを、独立した何かとしてすこしずつ明瞭に認識できるようになっている(意識が脳とは独立した何かであると今いっているのではない)。

記憶とか感情というのも、考えてみれば、独立した何かとして明瞭に認識できるようになったのも、人類の最初からではないはずだ。

なぜなら他の動物は、「意識、あるある」とは思わないし、「記憶、あるある」とも「感情、あるある」とも思わない。「空気、あるある」と思わないのと同様に。

さて、では、人類はいつ「言語」の存在に気づいたのだろう?

おかしな質問だろうか?

猫や犬が鳴いたり吠えたりしているとき、それを独立した何かとして明瞭に認識しているのかというと、怪しい。排泄をしたり食事をしたり眠ったり性交をしたりしている漠然とした全体のつながりのなかで、鳴いたり吠えたりがあるだけだろう。

同じく、初期人類においては、言語は、いろいろテキトウにぶつけてみたら なんだか相手やみんなをコントロールできたよ! というようなものだったのではないか。赤ん坊が泣いたり笑ったりするのに似て。

そうだ、言語の始まりは、けっして、裁判の判決文のようであったり、商売の契約書のようであったり、数学の証明式のようであったりは、しなかったはず。


さてさて、そろそろ結論。

ツイッターの時代になって、言語の使い方が、言語の始まりのころに戻ってきたようなかんじがしないか。

体を活性化させたり沈静化させたりするために、たとえば心臓は血液の送り出しをコントロールする。それと同じく、心や頭を活性化させたり沈静化させたりするために、私たちは日々、言葉の送り出し(つぶやき)をコントロールしているのだ。

ミクシーが隆盛してきたころ、われわれの言語の使用はインフォメーションのためではなくコミュニケーションのためのものへと大きくシフトしています、などと指摘された(東浩紀)。これもすでに言語使用の先祖返りだった。

そしてツイッターは、いっそうの先祖返りなのだ。

もうちょっというと、ツイッターにおける言語使用は、言葉と意味の1対1対応が丁寧に組み上がっていくのではなく、ルーチン的な株取引あるいは総量的なマクロ政策にも似た何かになりつつある気がする。

だからつまりそれが、先祖のころの言語使用に近いのであり、猫や犬の感情表出や、ジュウシマツの求愛の歌や、心臓が送り出す血液コントロールにも似たものなのだ。


…なんてことをつぶやいたら、俳句ボット なんてものからフォローされたというメールがきた。http://twitter.com/#!/haiku__bot  ほらやっぱりツイッターなんてFX投資みたいなものなのだ。

ツイッターは言語の先祖返り」朝から大変なことに気づいた。世界の秘密がひとつ解けたみたいなすがすがしさだ。