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【2019 輪廻転生】

コミュニタリアンと天皇制


近ごろ朝ガストに行くと読売新聞がなぜか読める。こういうのを翻訳風文体にするなら、「最近のガストにおける朝食が読売新聞の理由不明の閲覧を可能にしている」ということになるわけか。参照:日本語作文術

さてそれはそれとして。天皇制について「あってもいいかな」「なくてもいいかな」という2つの気持ちがこの20年くらい揺れていたなあと思う。で、このあいだその読売新聞で、皇室の未成年女性が成人すると毎年いくらか金がもらえるという話が載っていた。ちょうど誰かが20になるらしいからだ。

でまあ、それが確か、年間640万円とかだった。

640万? 「そんなんじゃ生活できないよ!」とつぶやくあなたは、きっと公務員だろう。「へ〜うらやましい」とつぶやくあなたは、きっとワープアだろう。

では、天皇制は「あったほうがいい」または「あらねばならぬ」と考える人は、この640万円という数値をどう感じるのだろう?

天皇制の意義や価値を認めるなら、少ないよなあと思う。なにしろ公僕の平均年収より低いみたいだから。

(ところでその記事が見つからないので、関連すると思われる産経の記事を以下に示すhttp://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100904/imp1009040701001-n4.htm) 

で、この640万円という数値がどういう位置づけか。私はあまり詳しくないので、そこのところはよろしく。

さてしかし、その一方で、年収200万円以下がこんなに増えてますというニュースもなかなか衝撃的だった。

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51384899.html

で、私は読売の記事をガストで読んでいて、ふと、「ああもう天皇制なんでどうでもいいんじゃないか」つまり「なくてもいいんじゃないか」「なくしちゃえばいいよ」と、珍しくすっきりと感じたのだった。

そう思った理由は、そのときはよくわからなかったのだが。あとから「年収200万以下がこんなに増えてます」のニュースを知って、そのときの直感の根拠がわかった。

つまり、まともに生活できる国民というのは消滅しつつあるじゃないかということ。国民の消滅とは、要するに国家の消滅だ。

でもみんななんとなく、それでいいと思ったり、それはしかたないのだ、と思ったりしている。私もなんとなくそう思っている。グローバルとか自由経済とかいうのは、要するにそういうことなのだから。国という垣根ではなく、金という垣根によって、ものごとの秩序なり構造なりがすべて作り替えられる。

だから国民も国もなくなりそうな勢いの21世紀に、その国民とか国民の統合の象徴だけが変わらず存するというのは、ちょっと笑えるではないか。というか、皇室がいわば笑いものではないか。

そんなふうに感じたのだろうと思う。

それにしても、日本国の象徴じゃなくて省庁のほうは21世紀になっても相変わらず栄えに栄えているなあ、なんだこりゃ、心の底から腹立たしい、ということもまたつくづく感じたかもしれない。

その640万円という金額が何なのか今いちはっきりしないままで書くが、天皇制に意義や価値をはっきり認めたうえで、そんなケチなことは言わず○○皇子(皇女)には1億くらいはバンバン与えたうえで、国民もまた最低でも公務員なみの生活を一律保障しろよ、というのは、そう気が狂った考えでもない。

そのことを、日本国政府の名ではなく日本国天皇の名とともに、宣言し、また、信頼すればよいのだ。

…なんて希望がもはやありえないのだから、国民も国も天皇もそろって心中なのだ。円とかドルとか元とかが渦巻く尖閣の海へ?

サンデル先生が自らその立場だというコミュニタリアン(共同体の伝統などを軽んじない立場)にとって、その特異な価値観を自ら実感するのは、日本においては、たとえば天皇制をどう思うか、という問いに対してがそうだろう。そんなもの要らないよ、考えるまでもない、というのがリバタリアンだろう。

小沢一郎という存在も特異だし、検察という存在も特異だろうが、皇室なんて最初から特異すぎてむしろ、もうすっかり目に入らなくなってるなあ。

コミュニタリアンは、天皇が日本にいることや尖閣が日本であることが自分の利得としてべつに1円の足しにもならないとしても、だからといって「要らない」とは考えない立場、ということになるだろう。

コミュニタリアン的な心性を完全に脱したら、「日本人」にも「中国人」にも「日本政府」にも「中国政府」にも完全にニュートラルな気持ちになるのだろうか? この世には「日本人」や「中国人」なんていなくて、ただ「利口な人」と「利口でない人」がいるね、という感慨だけに浸るようになるのか。


 *


ところで、「天皇制がある」と「天皇制がない」は論理的に共存できないが、「天皇制があってもいい」と「天皇制がなくてもいい」は共存できるのだろうか? 

「すべての国民が名字をもつ」の否定は「すべての国民が名字をもたない」ではない。それに当たるのは「名字をもたない国民がいる」だ。こういうのは述語論理と呼ばれるなかで整備された。

似たような対応関係として様相論理というものがある。「天皇はあらねばならない」の否定は「天皇はあってはならない」ではなく「天皇はなくてもよい」だ、といった対応関係の理屈が整備されているのだ。同様に、「天皇はなくてはならない」の否定が「天皇はあってもよい」

つまり。「○○があってもいい」という人は、「○○はあってはならない」という人に対してのみ反対しているのだ。同様に、「○○はなくてもいい」という人は、「○○はあらねばならない」という人に対してのみ反対しているのだ。

しかし実際にはけっこうごっちゃになって、反対された立場でもない人が、誤解していきりたつ、ということがある。

さてさて。それでも、「天皇制はあってもいい」主張と「天皇制はなくてもいい」主張の併存は、論理的に正しいのか誤りなのか、まだよくわからない。こういうのは命題論理でもなく述語論理でもなく様相論理でもなく「心情論理」? 心情とは論理とは相反するともいえるのでそもそも矛盾した概念か。