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【2019 輪廻転生】

コミュニタリバン?


マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』 ようやく読み終えた。(ずっと下にある追記が最重要

  これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

サンデル先生が自らその立場だとはっきり打ち出す「コミュニタリアン」料理のフルコース。この味はしかし本当に私の舌になじむものだった。幸福、自由、美徳の3栄養素もしっかり摂取できた気がする。

私なりの喩えをすると、「今から私がやろうとすることが正義かどうか」を、リベラリズムは、コンピュータに計算させて判断するのに対し、コミュニタリニズムは、それをやっている自分を想像して気持ちが良いか悪いかを判断基準にするようなところがある。

実際のところ、私たち(少なくとも私)は、そのようなコミュニタアリン的な(言い換えれば、モラルとか道徳とか、人間としてどうかとか)そういった基準を捨てることはできない。

とはいえ、だれもが同一の道徳やモラルを気持ち良く思うわけではないのだから、コミュニタリアニズムはその点では非常にあやういことにはなる。

サンデル先生も、たとえば、アフガニスタンの山羊飼いを殺すことには躊躇するが、タリバン兵士を殺すことにはそれほどの躊躇はしないのではないかと、邪推させるところがあった。

同じく、これはあまりいちいち指摘されていないと思うが、かつての日本軍の行いについて言及するときも、さほどの資料もなしにちょいと色眼鏡で見ているのではないか、とも思わせた。

しかしまあ、それは仕方ないことなのだ。サンデルさんはアメリカ人であり、私は日本人なのだから。そして、「私は○○国人であるから」という理由には、なかなか明確な根拠が見つからないにしても、人はそうした根拠に基づいて生きるものである、というのが、コミュニタリアニズムというものだろう。

同じように、隣の家の子供が病気で、うちの家の子供が病気で、というときに、どうして隣の家の子供ではなく、うちの家の子供のほうの病気を救おうと頑張るのか、という理由もまた、リベラリズムでは説明できないのだ、みたいなことも述べているのが、興味深かった。

家族を大事に思うことと、所属する国を大事に思うことは、どちらもいろいろなものに支えられているんだろうが、その複雑さの度合いや、それが変わりうる蓋然性には、かなり開きがある。私が生きているあいだにも変わりうるのは愛国のほうだろうとは思う。

しかしまあ、リバタリアニズムリベラリズムの考え方、そしてそれらから遡ってカントやアリストテレスの考え方が、ある程度わかったのは非常に有益だった。特にロールズリベラリズムについては、これまでほとんど知らなかったので、とてもよかった。

たとえば、「ハローワークにやってきた失業者に対し、ハローワークで働いている公務員とまったく同じ給与や住居を与えるべきではないか」という主張があったとしよう。リベラリストは、その主張が正しいかどうかを判断する「原理や手順」なら、きわめて正確に示すのだろう。

しかし、そのリベラリストは、その原理や手順に基づいて出てくるはずの「個別の判断自体」は、ただちには下さないような気がする。「それは正しいぜひやろう」とも「それは間違っているやめるべきだ」とも自分の考えを押しつけもせず示しもしないということ。私はそこにずるさを感じる。

コミュニタリアンは少し違っていて、「理由は今すぐには言えないけど、それでも、オレはそれは正しいと感じる」とか「オレはそれは正しいと感じない」ということを重んじるのではないだろうか。

もうひとつ、サンデル先生は、オバマ大統領は政策の正しさを判断するのに道徳的な正しさという観点をとりいれている、という点を指摘していたことも、興味深いと思った。

《所得、権力、機会などの分配の仕方を、それ一つですべて正当化できるような原理あるいは手続きを、つい探したくなるものだ。そのような原理を発見できれば、善良な生活をめるぐ議論で必ず生じる混乱や争いを避けられるだろう》

《だが、そうした議論を避けるのは不可能だ。正義にはどうしても判断がかかわってくる。議論の対象が金融救済策やパープルハート勲章であれ、代理母や同性愛であれ、アファーマティブ・アクションや兵役であれ、CEOの報酬やゴルフカートの使用権であれ、…

…正義の問題は、名誉や美徳、誇りや承認について対立するさまざまな概念と密接に関係している。正義はものごとを分配する正しい方法にかかわるだけではない。ものごとを評価する正しい方法にもかかわるのだ》p336(鬼澤忍訳)

タリバンで思い出したが、アフガニスタンで誘拐されて生還した常岡さんの雑談対談(uストリーム)がとても面白かった。アフガニスタンでは、ソ連の支配と撤退があり、911をきっかけにしたアメリカとの戦争がありと、まさに世界の中心だったではないか、という指摘が虚を突いていた。

それと、アフガニスタンは、もはや、カルザイ政権の国ではなく、どちらかといえばタリバンの国といってもいいくらいの状況のようだ。それと、常岡さんが捕らえられていた村などでは、テレビやパソコンはおろか、家の中にトイレすらなく、それにもまして、尻を拭く紙も水もないのだという。土で処理と。

そしてどうやら、そうした貧困を生きることと、イスラム教徒であることが、イメージとして一致しているらしいこと。(もちろんイスラム教徒にはものすごい金持ちも多い。主にアフガニスタンの外だろうが)。そして彼らには、物質文明を謳歌すること=異教徒というようなイメージでもあるそうだ。

なんというか、かかる世界観というか価値観の落差というのを実際に見聞きすると、世界は本当に広く互いに本当に遠いなあと思ってしまう。イルカ猟だけをあれほど嫌う連中は中立性に欠けると私は感じるわけだが、ではイスラム原理主義の言動を100%嫌うのは中立性としてどうなのか、とも悩む次第。

こうした問題にリベラリズムコミュニタリアニズムはどのような解答を与えるのか。おそらく、日本政府はカルザイを助けるべきかタリバンを助けるべきかという判断と、私はカルザイが好きかタリバンが好きかという判断とでは、なにか勝手が違うわけだが、それぞれの基準になるのかも。(つまり、前者はリベラリズムの基準、後者はコミュニタリアニズムの基本)

あそうだ、サンデル正義本をめぐり、もう1つ言っておきたいことがあった。正義の基準に「美徳」を置くことが避けられないように、「恨み」や「妬み」を言動や政策の判断基準にすることはありがちであり、それどころか、それはなんらかの正当性すら持つのではないか。ふとそう思ったのだった。


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(追記 2011.1.4)
サンデル教授のNHK番組を正月につけっぱなしにしておいたら、また興味がわいてきて、本の最後を読み返したところ、やっとピンときた。

サンデル先生の核心とは要するにこういうことだったのだ:

たとえば、同性愛婚を特定の道徳や価値観にしたがって否定する人がいるのに対し、「私たちの社会は道徳や価値観から中立的であるべきなのだから、同性愛婚を否定すべきではない」という主張がある。この主張はいかにも公正にみえる。ところが実は、この主張は、また別の特定の道徳や価値観にしたがっているものであることに、気づかなければならない。私たちが抱く「正しさ」の感覚や、私たちの社会が目指すべき「正しさ」の方向は、道徳や価値観といつだって切っても切り離せないじゃないか! 道徳や価値観こそが「正しさ」の根幹にある。だから、私たちは、互いに異なる道徳や価値観について議論を避けるべきなのではなく、議論をこそすべきなのだ。

はっと気づけば、なんとシンプルな盲点を、みごとに突いている。

追記前のエントリーは、こうした鮮明な感想を記していないので、注意。

ただ、赤文字で書いた、ぼんやりとした私の思いだけは、それこそがまさに私の道徳や価値観なのだから、ここでの意味合いはとても大きい。


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さらに一言追加。

ロールズ先生は「良いは善いとは別なのだ」と言ったのだとしたら、サンデル先生は「いや、善いことこそが、良いことなのだ」と言っているのかもしれない。さらに私は、「善いとは、つまり、好いということだ」とサンデルさんが言っているように思う。

 
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NHKオンデマンドで最終回とその前の回を見直してわかったこと。

「どんな道徳が善いのか」は個々人で違うのだから議論しても答には達しない、とみんな言う。たしかにその通りだとしても、だったら、そもそも「どんな社会が正しいのか」も同じように答には達しない。でも私たちは「どんな社会が正しいのか」については、よく議論し、そのとりあえずの答を、法などの形でに決める。だから、「どんな道徳が善いのか」についても、議論しようじゃないか! ―なんかそんんな結論なのだった。