自分がなにかを感じたり考えたりしたとして、それはそれだけで完結させておけばいいのに、ブログやツイッターになぜ書くのだろう。文字でモニターしないと世界のなかに自分が存在している気がしないからだろうか?
文字による自己のモニタリングということを、一生まったくしない人のほうが、現在もまだ多数派なのだろうか? その人たちはしかし、自己を文字で確認はしなくても、言葉(人との会話とか内語とか)で自己を確認しないわけではないだろう。…と推測しているが、自分以外の人のことは実はよくわからない。
文字を使わない人にとって自己意識とはどういうものかが想像しにくいように、写真がまだない時代、あるいは、まだまともな鏡をいつも手にしているわけではなかった時代、そんな時代の自己意識というものも、けっこう想像しにくい。
たとえば爬虫類などを含めた多くの動物は、そもそも、他の個体の姿は見ることはできても、自分自信の姿を見ることはできない、と言う。それってどんな感じなんだろう。
あるいは、「きみのことなんて、だれも、きみがおもってるほどは気にしてないんだよ」
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★ゼロから始める都市型狩猟採集生活/坂口恭平 という本を読んでいる。ダンボール住まいの人をロビンソン・クルーソー的存在として注目し交流もしてきた著者の、報告と思想。ダンボールの中は冬でもけっこう温かいらしい。金がなくても都市では何でも手に入る。「都市の幸」と呼んでいる。
そういえば、『悪貨』は、最初に野宿者が金を拾ったところから始まった。金がない彼にとって急に出てきた金はまさに魔法のランプだった。その逆もあるよと、この本『ゼロから始める…』は言うわけだ。金なんかなくたって食も衣も住も存在する、手にも入る、水や土地はいつもそこにあるじゃないかと。
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★桃果汁入り 野菜果物ジュース 優れもの