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【2019 輪廻転生】

言語のゆくえ2010 (7) 〜 I'd love to turn you on

 

ポカっと殴ったら相手の頭にこぶが出来た。これは物理現象だ。では、「ばか者!」と怒鳴ったら相手の頭に湯気が上がった。これも物理現象か?

答は最初から決まっていて、物理現象でないものなど この世界には存在しない(少なくとも「物理現象に由来しないものは存在しない」と私は考える)。

ただ、人間の言語活動は、刺激(ばか者!)と反応(湯気)の間にあまりに複雑な脳内プロセスをはさんでいるところが特異だとは言える(得意といってもいい)。げんこつとこぶの関係とは格が違う。

さて、早くも明けてきた夏の空を眺めながら、ギターを抱え「ドミソシ」(Cmaj7)と弾いてみると、ある特殊な情動が私の心に起こる。これも物理現象か?(だから、いちいち問わなくても、すべては物理現象)

では、Cmaj7の響きは、げんこつと罵倒のどちらに近いのか。――というのが本日の問いである。

「ばか者」とか「アイラブユー」とか、人に言うと大変なことになるが、たとえば猫に言っても何にも起こらない(頭をポカッと叩けば猫も怒る)。さてでは、私が奏でるギターの響きは、猫よ、君にはどう響いているのだ? 

いや、Cmaj7とかDm7-5とかそんな複雑なコードでなくていい。ドミソのミを半音下げて短調にしただけで、私にはどこかもの悲しく響くのだが、それは猫も同じなのか? イルカも同じなのか。ザ・コーブの人も同じなのか。カメルーンの人やデンマークの人やパラグアイの人はどうなのだ。(というかパラグアイとはどこにあるのか)

……それにしても、ワールドカップのグラウンドに響く「君が代」の旋律なんてのは、じつにいろんな情動や思考や記憶を呼び覚ます。べつにそれは天皇の戦争責任だけを呼び覚ますわけではないだろう。少なくとも私にとってはそうだ。いや、戦後65年も経過して、いまだにそんな情動に誘われる私の脳や体のほうがおかしいのか……

「ドミソシ〜」という響きと「バカモノ〜」という響きは、どちらも人になんらかの情動をもたらす点は共通している。しかし、それが主に生物的なメカニズムに依るのか、もっと社会的・文化的なメカニズムが主に絡むのか、そこに違いはありそうだ。そうすると、歌というものはその両方を含んで響くのだろうか。キ〜ミ〜ガ〜〜ヨ〜〜ワ〜

こうした言葉と音楽の違いについて、このところあれこれ考えている。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100129/p1

といっても、答は出ない。むしろ、問いが見えたら一段落だ。というわけで、本日も以下、考えはただ移ろっていく。

「ネ・コ」という音や字は、猫そのものとはまったく似ていない。「カ・ナ・シ・イ」という音や字も、悲しいという情動そのものとはまったく似ていないはずだ。そうした情動がたまたま「カナシイ」や「サッド」と結びついただけ。言語の恣意性と言われる。

ではもし、音楽が言語の代わりを果たすことになった場合、「ド・ミ♭・ソ」の響きが、悲しい情動ではなく嬉しい情動と結びつくことも可能なのか?

(「ド・ミ♭・ソ」がもの悲しく響く理由はそもそも社会や文化を超えた生物的なものなのか、というもっと根本の問いを踏まえる必要もあるけれど)

音楽はともかく、言語の基本要素となる音は、たぶん生物的にほぼ無色透明だろう。それは非常に有益なことだと気づかされる。つまり、どんな音がどんな情動と結びついても問題なさそうだから。

なおそれとは別に、言語の便利さは、口と耳あるいは手と目だけですべてを操れるところにもあると思う。ギターは生まれつき体にくっついているわけではない。(でも、歌ならいつでも歌えるか!)

さてそれで、やっぱり、iPadWiiが身体の一部みたいになる時代には、言語会話だけでなく音楽会話や画像会話が、マジに可能になるのではあるまいか。


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ちなみに、本日は以下のサイトを読み進めていて上のことを思いついた。

http://musai.blog.ocn.ne.jp/kagakusuru/x8/index.html

《言語が分かるということは、(拙稿の見解では)脳の中で変換された音節列の信号が記憶から自動的に特定の身体運動シミュレーションを呼び出すことです。脳に記憶として蓄えられているシミュレーションは、過去に仲間と共有した経験で作られている。言葉はその経験記憶に結び付けられている。記憶からシミュレーションを呼び出して再生し、言葉に対応して組み上げることで、私たちは、言葉に対応する一連の身体運動をバーチャルに経験する。音節列と身体運動シミュレーションのこの対応関係が言葉の意味するもの、といえる》

 
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拳骨で読め。乳房で読め。というキャッチフレーズがあった。80年代、糸井重里。実に深い。さすがだ。http://www.1101.com/shincho/05-08-12.html


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https://www.youtube.com/watch?v=usNsCeOV4GM「A Day In The Life」



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killhiguchiさんのコメントを受けて(6.28)

今回のエントリーですが、猫やイルカにそもそも「情動」はあるのか、あるならどういうものか、それをまず考えないとダメかなと思っています。そのことは、言語と情動が強く結びついたようにみえるヒトの心から言語を取り除いて情動だけになった状態とはどういうものか、それを考えることにつながると思います。(ただその場合も、「悲しい」という気持ちはたぶんかなり高度な成り立ちをしているので、まずは「痛い」とか「腹へった」といった知覚のようなものを題材にしたほうがいいのかもしれません)

いずれにしても、イルカについて気になるのは、われわれのような言語なしで高度な認知を行っているとしたら、それがどういうものか、また、そこにはヒトの言語とは違う形式の「言語に似たもの」が生じてくる可能性はないのか、といった点です。

それについては、この前教えていただいたkillhiguchiさんのエントリー(http://d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20060315#p3)を改めて読んでみるべしと思っています。

それと、今回も話が飛びすぎているのですが、動物の心とヒトの心はどう違うかという問いとは別に、音楽は言語のように心を外部に映し出す表現形式たりうるのか、という問いがあります。これまた、猫やイルカの心に言語のオールタナティブを探したいのと同じく、言語とは違う形式の「言語に似たもの」を見つけたいという興味が根本にあるのだと思います。

なお、音楽には言語のような二重文節性はないということになっているのでしょうか? ド・レ・ミ・ファ…の1音ごとの区分けに加え、フレーズ単位、小節単位、あるいはAメロ、Bメロといった単位の区分けがあるようにも思いますが…。

とりあえず。