われわれは、急に空を飛ぶようになったり胃袋が4つになったりはしない。あるいは、米や魚の代わりに油や電気を摂取したりするようにはならない。
しかし、われわれは、音声だけでなく文字でも書物でもコミュニケーションできるようになり、それどころかメールでもツイッターでもiPadでも言葉をやりとりできるようになった。
これは、四肢や内臓を作る遺伝子がやたらと進化しないのに比べ、言葉をあやつる脳のプログラムのほうは常に変化している、ということの現れであろう。
すごいことだ。ただ、そのおかげでわれわれは仕事がいくらでも増える。ライフハックが流行する。ライフハックできる。ライフハックせねばならぬ。
しかし、われわれにも限界というものがある。四肢や内臓のほうに。あるいは忍耐のほうに。
いや、限界は脳にもある。たとえば、ツイッター100人のつぶやきを瞬時にフォローすることは不可能だ。
麺と汁と野菜と肉なら一度にズルズルっと食べられるのに。胃袋はたくさんの物質を同時に処理できるようだが、脳はたくさんの文章を同時に処理はできない。
いや待て。それは本当に脳の限界なのか? 限界は脳ではなく言葉のほうにあるということはないか? 言葉を1個ずつ順番にのみこむほかないのは、言葉のしくみがそうだからなのか、それとも、脳がこうだからなのか?
そこはよくわからない。ともあれ、われわれの言葉仕事や言葉生活が「いいかげん限界に達しているよ」という実感は正しいのではないか。
そこで、言葉の処理を脳ではなくコンピュータに頼る。ツイッター全体で行き交っている無数の言葉からトピックや焦点をつかみだすのは、脳よりコンピュータのほうがはるかに得意だ。『告白』ってどんな映画だっけというときは、人に聞かずグーグルに尋ねる。3日前のメールの言葉を探すにはもちろん検索する。
食物を同時処理できるように言葉も同時処理できれば、われわれの生活はがらっと変わるだろう。進化するといってもいい。ただそれは、言葉の処理を意識から無意識にシフトすることでもあるのだろう。
いろいろ書いた。でも今日いちばん言いたかったのは「とにかくもう限界だよ」ということ。100のニュースやエントリーやツイートをすべて鍋にぶちこんでスープにして飲むようなやり方にしないと、人間はもう対応できない。そうでなければ、言葉の仕組みのほうを、あるいは脳や意識のしくみのほうを、変えてしまうしかない。
iPadとかWiiとかグーグルとか孫正義さんとか、そういうことをやってくれないだろうか。