東京永久観光

【2019 輪廻転生】

なんでもないものを いっそ なんでもなく映してみる?


われわれは、芸能人がポーズを決めたような写真も見るけれど、それよりは、なんでもない人のなんでもない写真のほうをもっと多く目にする。しかし写真ではなく映像となると、なぜかそうではない。とりわけ映画のスクリーンやテレビ画面には、有名な人物が決められた演技をしている様子ばかり映し出される。


ふつうの人物のふつうの行動をシゲシゲと見つめる機会なんて、案外ないのだ。そもそも、ふつうの人物のふつうの行動にわざわざカメラを向け続けていると思うこと自体が、われわれを落ち着かない気持ちにさせる。Youtubeがこれほど普及しても未だにそうだ。


ドキュメンタリー映画が無条件で面白いのは、「なにしろ珍しいものが映し出される」からではないのか。(ふつうの人物のふつうの行動があえて映し出されるという意味で珍しいということ)


松江哲明監督『あんにょん由美香』(asin:B002ZUSAX2)をDVDで見ていて、そんなことを考えた。


気になるテーマや疑問があるから、詳しい人に会っていろいろ聞いてみよう―。そうした行為はしばしば率直に行われている。業務であれ趣味であれ。ところが、そうした行為を率直にビデオカメラを回しながら実行すると、これまた不思議なことに、それだけで刺激的なのだ。


もちろん、手法や技術を積んだ作り手だからこそ映画として成立するということはあろう。それに『あんにょん由美香』の場合、アダルトビデオというやや特異な業界の当事者が次々に出てくることも大いに奏功している。日本と韓国のすれ違いや越境もまた同じ。しかしながら、本来は、経験の薄い作り手であっても、また、なんの変哲もない人物や場所が相手であっても、撮影という行為はその場になにか奇妙な変調を起こさせるように感じられる。


もうひとつ。懐かしい場所を訪ねてみる―そのことがもたらす無条件の感興もまた、このドキュメンタリーの土台になっていると思った。こういうことなら、なおさら誰でもできそうだし、いつか必ずやるべきだ。万人にとって自らのカメラが本当にものを言うのは、まさにこうした瞬間ではないか。(大げさかもしれないが、『リトアニアへの旅の追憶』など、また見てみたくなった)


さてここまで、ドキュメンタリー一般についてしか書いていない。


あんにょん由美香』には、以下のごとく、なかなか冷たいレビュー、なかなか厳しいレビューが目につく。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100310
http://eigageijutsu.com/article/122584121.html


この2つの意見、実は私も同感だ。それでも、一般の劇映画を見たのとはあまりに違うものが強くかき立てられたのは間違いない。ドキュメンタリーとはすべてそうなのか、『あんにょん由美香』だからそうだったのか。まだ判然としない。


雑誌『映画芸術』は、年間のベスト作とともにワースト作を選ぶことで知られるが、『あんにょん由美香』はベストでもワーストでも相当の得点を集めている。とりわけ低い評価を下したのは同誌の編集部だった。ファミレスかどこかで知らない人の葬式帰りの一団に出くわしてしまったみたい、といった趣旨の感想を述べている。上記2つのエントリーにも共通する物足りなさか。……ただ、どこかのファミレスで知らない人の葬式帰りの一団を克明にビデオ撮影したら、それはもう十分、いや相当 刺激的なのでは? とも思うのであった。


「なんでもないものを映すか、なんでもあるものを映すか」は重要な違いだと私はまず考えた。しかしそれとは別に、「なにかを確信をもって映すか、さほど確信がなくてもとにかく映すか」という違いもなかなか重要なのかもしれない。「確信なくテキトウに映したほうがかえって面白い」という場合だってあるのではないか。(ちょっと無理やりな一般論か)


 *


◎昔見た 松江監督の『あんにょんキムチ』について
 http://www.mayq.net/hinomaru.html
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050911/p1


◎以下はあまり関係ないが、私的には大いに関係する昔の日記
 http://www.mayq.net/junky0110.html#011009