東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言語のゆくえ2010


ダダダダーンという音の流れに意味はない。一応。


左のとんがりから右のギザギザまでの流れにも意味はない。一応。


しかし、たとえば「カナシイ」や「チョウマジヤバインデスケド」といった音の流れには、なぜか意味がある。(そもそもこのこと自体がチョウマジヤバイと私はつくづく思うのだが、それは今日はさておき)


言語が「意味をもつ」とは、たとえばクラクションや赤信号が果たすこととは比較にならないほど複雑であるらしい。それをまず踏まえる必要がある。


それでもなお、音楽や風景はそうした言語の代わりには絶対にならないのだろうか? 今のところいろいろ使い勝手が悪いだけということではないのか?


もし音楽や風景が言語と同等の役割を果たしたら、それは「言語」と定義すべきか?


岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)には、ベートーベンの交響曲第5番第1楽章は、フレーズが「しかし」とか「ゆえに」といった接続詞でどんどんつながっていくように感じられる、という趣旨のことが書いてあった(記憶のみ)。asin:412102009X (追記:ベートーベンについては、交響曲第5番第1楽章にかぎった記述ではありませんでした。訂正します)


音楽は少なくともその程度の構造は持てるのだ。だったらいつか、まるで言語みたいに単語となり品詞に分かれ文法をまとうことなども、不可能ではないかもしれない。


しかしそれよりもっと面白い空想がある。それは、音楽が言語に勝るとも劣らぬ複雑な機能や構造を持つのに、それが言語とは似ても似つかないといった事態だ。当然、接続詞でつながったりするような機能や構造でもない。そんな音楽を使って私たちは何ができるだろう。何かすごいことができそうだ。


これは何度か書いているが、フリッカーツイッターは言語とは違った独自の思考やコミュニケーションを産み出していないとはかぎらない。だったらそのうち私たちは、Wiiテルミンを使って考えたり挨拶したりしよう! iPadでもいいのだが。