東京永久観光

【2019 輪廻転生】

正月に飽きたら大掃除でも


複数の本を並行して読むことが普通になってきたなと思う。

テキストは常に目の前にあふれている。種類もかぎりない。いずれも自在にアクセスできスキップもできる。しかもそれらは大抵とても短い。140字以下のこともある。

要するに、ひとつの長いテキストをじっくり読むことがとても苦手になった。…というか、我々はそもそもそんなことは得意ではなく、ただこれまでは目移りするほどの状況になかっただけなのかもしれない。

それでも、値打ちがあると思える本は最後まで読み通したい。そこでどうするか。本当に面白くて集中できる間だけ読み、惰性でページをめくっていると気づいた時点で中断する。そして次の本に移る。

そんなふうにして、今は主に3冊が手元にある。


★ヴァインランド/トマス・ピンチョン
ヴァインランド ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集) 

ピンチョンは『スロー・ラーナー』を少し読んだが長編は一つも知らない。こんど読もう…いつか読もう…いつか読むから今はいい…と自分に言い聞かせながら、もう21世紀も10年が過ぎてしまった。潮時。『ヴァインランド』にしたのは、『重力の虹』などに比べ読みやすいと聞いたからだ。実際 今のところ穏当に読み進められる。章に当たる区切りはかなり短く、時間を使うのにキリもよい。池澤夏樹個人編集の世界文学全集にも入ってタイミングもよい。「1984年の夏の朝。」と始まり、もうひとつの「1Q84」とも言われている。


★グローバリゼーション 人類5万年のドラマ/ナヤン・チャンダ
グローバリゼーション 人類5万年のドラマ (上) 

上巻の第3章では、この世界において物品の生産と消費はどのようにグローバル化してきたか、綿織物そしてコーヒーを典型例にして詳述している。予想を大きく超えて面白い。

アメリカ大陸を知らなかった時代があったように、コーヒーをまだ飲んだことがないとか、綿織物をまだ見たことがないとかの時代もあったのだと思うと、当たり前ながら不思議におもえる。

初めてその実をあぶって醸造してみたイスラム僧の体験が伝わっているという。

《導師は、いまだ経験したことのない不思議な陶酔状態に陥った。導師は熱心なイスラム教の信者なので、酒に酔った経験などまったくなかった。……ところがいま、身体の感覚はほとんどなくなり、心はいつになくいきいきと、愉快で、かつ冴えた状態になった。考えも頭に浮かぶだけでなく、はっきりと眼に見える形をとった》(友田錫/滝上広水=訳)

しかしいくらなんでも大げさではないか。まるで覚醒剤だ。ドラッグとは人を社会的文化的にすなわち歴史的に踊らせるものなのだろう。校舎の陰で初めて吸ったタバコの味とか。

以下は、この悪魔の飲み物が17世紀にまずオスマントルコでにわかに流行した頃の様子。

《コーヒーの人気をねたむ聖職者たちは、人びとを快楽におぼれさせ、祈りを忘れさせるこの悪しき飲み物に、くり返し非難を浴びせた》《当時、コーヒーハウスは数千軒もあり、詩を読んだり、不道徳なおしゃべりにふけったり、ギャンブルをしたりというだけでなく、声高に政府の悪口を言ったり、陰謀の巣になっていたりした。あるとき、ムラド四世は変装してイスンタンブールのコーヒーハウスに行ってみたが、そこで眼にしたものは、お世辞にも愉快なものではなかった。一六四〇年、イスタンブールのコーヒーハウスはすべて取り壊され、店主は投獄された。》

これまた大げさな。しかしウィーンやパリでも似たことが起こったという。なんだかネットサーフィンや2ちゃんねるをめぐる騒動を思わせる。

ともあれ、このように物品を通して世界史をたどるのは意外に飽きない。とはいえこの本は、歴史を知るとはなるほどグローバリゼーションを知ることだと深く納得させるところに本領がある。綿織物とコーヒーに続いて焦点が当たるのは、現在の情報伝達技術のすべてを支えるマイクロチップ。そして、WTO(世界貿易機構)の第1回首脳会議が開かれたシアトルで、反グローバリゼーションを訴える活動家たちが、スターバックスコーヒー店を襲ったという話から始まったこの章は、きわめて皮肉な文章で締めくくられる。

《シアトルで、繊維労働者やコーヒー栽培農家への搾取に抗議し、ワールド・ワイド・ウェブ、すなわちWWWを使ってパソコン上でグローバリゼーションの悪影響を非難したデモ隊は、実はそれと気づかずに、遠い昔から進行している過程、それも自らが軽蔑してやまないプロセスに参加していたのだった》


数学ガール ゲーデル不完全性定理結城浩
数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3) 

これは一応読了。不完全性定理の解説本はこれまでもけっこう読んできたが、今回初めて「そうか!」とわかったところがとても多い。(本当はこれまでも同じくらいわかり、しかし同じように忘れた、ということが毎度反復されている可能性もあるが…)

たとえば先ほどの『グローバリゼーション』は、広々とした土地をずっと眺めて歩くような読書であり、いくつもの面白い風景が積み重なることでその土地に関する知識はどんどん膨らんでいく。一方でこの分野の本の場合、右も左も険しい崖が切り立った場所で一本の狭い路を前に進むだけのような読書になる。ときたま崖の間に隙間があってとても珍しいものがちらりと見えるのだが、その先はまたもや見通しが悪い。それでもいつかは全体を見渡せる場所に出ることができるはずだ。その時こそ、ここは一体いかなる地形だったのか、自分はいかなる迷路を歩かされていたのか、初めてすっかり明らかになるにちがいない。現代数学とりわけ不完全性定理を理解するというのは、どうもそんな作業に思える。

まだ先は長いが、今回の本でかなり見通しがよくなった。そして、数学という土地を旅するには、たとえば歴史という土地や小説という土地を旅するのとはまったく異なる楽しみを見出さなければとても続けられない、といったことだけがいよいよはっきりしてくる。しかもそれは物理学や生物学の土地とも違い、専門の登山や航海の術があればいいというものでもない。では宇宙への旅か。いや違う。数学はおそらくこの宇宙に実在してはいない。

なお、この「数学ガール」シリーズは、「数学」好きの人を正しく唸らせると同時に、「ガール」好きの人をも正しく唸らせたからこそ、人気を呼んでいるのだろう。昨今の日本では「ガール」と「数学」のマニア(オタクともいう)はけっこう重なるのか。まあ私は、「ユーリ」「ミルカ」「テトラ」より、たとえば「竹さん」と「マア坊」と「ひばり」が出てきたらもっと楽しめたかも(太宰治パンドラの匣」の登場人物) 

いずれにしても、数学の醍醐味とは物理や生物とは違ってプラトニック・ラブに似ているのではないか。「恋愛って何ですか?」「定義すればよい」「成就しますか?」「証明できればよい」

(追加あり→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100206/p1


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さてさて、読書そのものに飽きた時はどうしたらいいのだろう。その時こそ仕事をすればよい。最近私は実際にそうしている。仕事も3つくらいは並行するものであり、資料を読むのに飽きたら、こんどは経費の精算だ。