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【2019 輪廻転生】

ことばの選択、こころの洗濯


「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「ようし来た」

これはこの小説の舞台である結核療養所で世話係と入所者が日々あいさつのように交わすフレーズだ。(取材した事実に基づいているともどこかに書いてあった)

それにしてもじつに新鮮な会話ではないか。どうにも言い表しようのないことを言い表すのに、通常は大げさな飾りの言葉や長い説明の言葉を使ってしまうが、こんなふうに それ自体ちっとも目立たない言葉を並べるという方法によっても、平凡ながら私とあなたにとっては他でもないただ一回の出来事やある一人の人物を、なめらかにしなやかに印象づけることができるのだ。そのように苦心し心を込めて言葉を選べる天才こそが太宰治なのではないか。

というわけで「パンドラの匣」を読んだ。上にのべたとおり文章のことごとくが人の心の敏感なところをなぞる。友人に当てた手紙という形式の小説でもあり、「僕の内緒の気持ちを君だけに明かすんだけどさ」といったトーンにずっと包まれる。

むかし私が入学した大学のクラスで自己紹介の文集を作ったが、項目のひとつに「影響をうけた本」というのがあった。複数回答が一つだけあり、それが太宰治の「人間失格」だった。(この話は前にも書いた)

高校を出たばかりの若者は今でもそんな感じかもしれないが、しかし、「人間失格」が必ずしも太宰治の神髄ではない。「走れメロス」でもないだろう。むしろ「パンドラの匣」みたいな小説こそ太宰治らしい。最近それを強く感じるようになった。

それは軽さ、明るさ、ユーモアといった形容になる。。だいたい、戦争が終わったという世相の一大変化を「だったらぼくは新しい男になるぞ」と極めて個人的な決意のテコにしてしまうところが、飄々としている。しかしもうひとつこの小説の重要なキーワードは「健康」だ。そうした向日性や清潔さを日々の基調に据えたいという実感がひしひしと伝わってくる気がした。このころ太宰治は日本という国や自分の将来にもそうしたことを本気で望んでいたのではないか。

小説の最後はこう結んである。「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」

入所者のあだ名がまた人を食っていていちいち可笑しい。「かっぽれ」とか「越後獅子」とか「固パン」とか。なんだ、かっぽれって?

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さて、同じころカフカの『審判』の新訳を手にしていた。なにかと気をひく光文社の古典文庫。『訴訟』とタイトルも変えて出た。その解説にこんなことが書いてあった。

カフカの場合も、「不条理」とか「不安」とか「絶望」といった眼鏡をかけて読む人がいる。しかし、牛乳びんの底みたいな眼鏡をはずして読めば、異様な設定で話が展開していても、細部には、平凡なサラリーマンが「そうだよ、そうなんだよな」と共感するような、日常的な心理が満載で、そこはかとなくユーモアがただよっている。『訴訟』はけっこう軽快で、喜劇のにおいもする》《おどろおどろしく深刻な『審判』は卒業したい》

本当は軽くおもしろいカフカ。同様の思いこみの例として先に挙げていたのが太宰治だ。《太宰治の文章は破滅型の眼鏡を外してみれば、「落語のように」(三浦雅士)おもしろく、ユーモアにあふれている》と。

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パンドラの匣」を読んだのは、映画『パンドラの匣』をテアトル新宿で見たのがきっかけ。

映画館に行く回数が年々減り、そのせいもあろうが、これもまさに心の非常に敏感なところに触れてくる一作だった。なんといっても若い主人公を惑わせる2人の女優 川上未映子仲里依紗が絶妙。べつに特別優れているとか特別美しいというわけではないのに、こんな特別な印象を与える人物はこの人一人しかいないだろうと言いたくなる人物が本当にそこにいる感じがするのだった。

上映後には監督の冨永昌敬と音楽担当の菊地成孔の対談があり、冨永監督は進行役も務め、その進行ぶりが冨永監督のただものではなさを感じさせた。もちろん映画が感じさせるものも冨永監督らしい固有性に満ちてはいたのだが、これはもしや多くを太宰治自体に負っているのではないかという気もして、ぜひ原作を読もうと思った次第。



パンドラの匣 (新潮文庫) asin:4101006113

 青空文庫にも。http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1566_8578.html


★訴訟 (光文社古典新訳文庫) asin:4334751946