東京永久観光

【2019 輪廻転生】

つぶやきの銀河



ツイッターを眺めていてつくづく感じるのは、情報もまた人間と同じように砂粒化が激しく進んでいるのだということ。同時に、インターネットに仮に意識みたいなものが生じても、それは1人のブログや1個のつぶやきの次元ではないということ。


●流浪するつぶやきの民

ツイッターのつぶやきのすべては、たとえば「はてな」などといった古き良き領域だけに留まることはもはやかなわず、インターネット全体をコントロールするグローバルな情報の力学だけによって、まるで砂粒のように流動化し漂い続ける。

これはなんだか国家の形成と崩壊を思わせる。

国家と国民は人間の長い歴史に生じた一過性の奇跡だった。それと同様、はてな国やはてな国民の形成もまた、ネットの歴史においては幻のごとくであり、もはやそのタガは緩み崩壊は止められない。

そうしてどうなるのか。私たち国民はみなグローバルな経済や政治の力学だけで流動する砂粒になる。日本もアメリカも中国も韓国ももうない。私がどこかの国の民であるというロマンなど ほんの1、2世紀で終わった。情報の世界においても、「はてな」も「ミクシー」もほんの数年足らずの輝き。「私のこのつぶやき」や「私のこのブックマーク」が「はてな国」という中間的共同体に帰属し保護されている状態など、歴史の夢の1ページにすぎなかったのだ。

その一方、次のこともありありと感じられる。


ニューロンみたいなツイッター

脳内のニューロン神経細胞)の興奮が連鎖していく様子はまるでツイッター、みたいなことがこちらに書いてあって、ホントだなあと思ったのが発端。http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20090929/1254234714

そうかと思えば、ツイッターのログをまとめて出力してくれるウェブサービスも出来た。http://twtr2src.ogaoga.org/ これはそのままブログに載せられる。

ツイッター関連ではこうした仕組みがいくつもいくつも重なっている。そうしてただの誰かの1つのつぶやきは、無数のサイトや多様なネットサービスへとどんどん伝わっていく。それぞれの反応はやがて渦を巻くように集積し、誰も予測できない出力を起こしていく。「そんなことしたらどうなるんだ!」 なんだか恐ろしい。

でも実は、脳というやつは、無数のニューロンのつぶやきを結んで、そんな恐ろしいことを易々と成し遂げてきたではないか!

生物である人間の脳は数十億年を費やしてここまで進化した。インターネットはほんの数年で似た水準にまで到達するのか。


……この話をもう少し展開してみる……


●脳の得意技はインターネットも得意

これまでパソコンを使ってきて、その情報処理については脳との明らかな差のほうを実感することのほうが、私は多かった。

それは、パソコンは記録は得意だが、整理や想起は苦手ということ。

脳は、私の無数の体験や記憶を頼んでもいないのに勝手にリンクしてくれる。それは無闇なリンクではない。私にとって最も適したリンクはどんな形なのかを十分に見きわめる。また、状況の変化に応じてリンクの有無や濃淡を常に更新していく。ただ黙々と。しかもなおさら脳が素晴らしいのは、そうした体験や記憶へのリンクを、ときどき勝手にクリックしてくれることだ。まるで居眠りしている私の肩をたたくように。

ところがパソコンのほうは、いくらデータを溜め込んでも自動的にリンクをすることはなく自動的にクリックもしない。パソコンのデータはたしかに永久に腐らないのだが、リンク(整理)とクリック(想起)がないために永久に死んでいるとも言える。

しかし、それは個人のパソコンだけを見ていたからであり、世界中のパソコンがすべてつながったインターネット全体を見れば、様相はまったく異なっていたというわけだ。

インターネットの個々のユーザーとは遠く離れたどこかの次元で、インターネット全体を自律的に統合する中心が出来ていないとはかぎらない。ニュースやブログやミクシーやツイッターがすべて連結したインターネットは、すでに脳全体のようである。そのどこかに意識みたいなものが生じてくるという想定は、まるきりトンチンカンではない。


●インターネット世界の知能体とは

ただその場合、次の悲しい事実にも気づかねばならない。私の脳を構成する1個1個のニューロンの次元には「意識や自我」など存在しない。それとまったく同じく、「私のつぶやき」はネット脳を構成するほんの1要素にすぎないのであり、「つぶやくこの私」がネット全体の意識を感じることなどありえない。

言い換えれば、旧来の「つぶやく私のこの意識」という次元でツイッターを使っていると、むしろ意識などもたないニューロンたちの分散並立した明滅がただ果てしなく続いているだけにしか感じられない。はてなの私のダイヤリーや私のブックマークのように私の意識や記憶や自我と直結して情報処理がなされているという感覚が、ツイッターを使っていてももてないのだ。

だから、旧来のリンク形成や意味形成という点では、はてな時代のほうが高等かつ便利だったようにも思える。インターネットの情報世界は、ツイッター時代になって、個々のユーザーの意識や次元のことなど、あっさり捨てて忘れてしまったかのようだ。

ブログならしっくりきてツイッターはしっくりこないユーザーなんて、インターネットにおける知能体としては、もう古いやつであり滅びゆく運命なのだろうか?