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【2019 輪廻転生】

遺産文学(しかし1000円札で2冊も買える)〜あるいは胃酸文学



道草/夏目漱石 asin:4101010145 asin:4003101138


漱石を読んでいつも感心するのは、日本語って案外変わらないものだなあということ。どれも100年ほど昔に書かれたわけだが、ふしぎなほどストレスを感じずに読み進む。単語もほぼすべて、今なおふつうに使われる範囲のものだ。

対照的に、登場する街や家や人を彩っているアイテムのほうは相当に変化した。交通機関、室内の作りや調度品、衣類などなど。まあ100年もたつのだからそれは当たり前で、むしろ、明治や大正始めの小説を平成の人間が素で読めるほうが、ちょっとおかしいのかもしれないし、少なくとも非常にありがたいことではある。

そこには、言文一致というひとつの近代革命が世界史的にはかなり奇跡的に生じたということに加え、以後その成果たる小説作品群が国民言語の規範として親しまれ敬われ、実際にずっと読み継がれてきたという経緯が、やはり奏功しているのだろう。

そういうわけで、私も漱石の小説はなんだかんだと読んできた。『吾輩は猫である』『坊つちやん』『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『行人』『こゝろ』『明暗』。短編だと『夢十夜』『硝子戸の中』など。あとは『草枕』『虞美人草』あたりが未読で残っている。

さてでは、『道草』とはどんな小説なのかというと…。

元の養父母との金銭が絡んだ確執。実の兄や姉夫婦とのすれちがい。そして妻とのいさかい(つまり夫婦喧嘩)。そんなことばかりがこれでもかこれでもかと続くのだった。ああ辛気くさい。自伝的作品とされているが、実際これで漱石は神経を病み胃を痛めたのだろうか。じくじく、しくしく…。

やけに淡々とした綴り方も印象的だった。『坊っちゃん』などはもっと活きがよく鮮やかな文だったとおもうが、『道草』はいわばモデラートな日本語作文のお手本みたいに思われた。文末に「た」が連続しても平気そうなところも逆に興味をそそる。

そんななか、自らの性根の卑小さを見つめるくだりは、「ああ、あるある」といった形容なので、思わず笑う。

漱石の小説ってどこがいいのだろう。自問しながらも、なぜかやめられなくて結局また最後まで読んでしまうのだった。「これまで百年みんなが読んできた、これから百年もまた」といった安心感もあるのだろうか。


 *


その夏目漱石の小説が国語の教科書から消えるというのが、少し前に話題だった。2002年のことだったらしい。円周率も「3.14」から「3」になると嘆かれた。漱石の小説とはつまり余計な「0.14」だったのか…。

水村美苗が警告する「日本語が亡びるとき」も、外形的な意味の一つとしては、こうした漱石などを国民の多数が読まなくなる時を指しているのだろう。asin:4480814965

100年昔の日本文学に対し、「ちっとも古くない」または「すっかり古い」と相反した感受の仕方があろう。実際私も、漱石の小説をたとえば川上未映子津村記久子の小説と比較して、ときには「古い」と感じ、ときには「古くない」と感じる。しかしながら、この両方からそれぞれ「だから忘れてはならない」または「だから忘れてかまわない」と、つまり計4パターンの主張が出てくるだろう。

いずれが正解なのだろう。現代の日本国民は、まだ漱石を読むべきなのか、もう読まなくていいのか。

人類の歴史は長い。日本国や日本語の歴史もけっこう長い。それに比べたら日本近代文学の100年なんて短いものだ。「だから漱石くらい読め」 しかし一方、我々の命自体がせいぜい100年、だから日本近代文学の100年とは永遠のように長いと言うべきだ。戦後文学だけでも長すぎるじゃないか。村上春樹以降でも多すぎるじゃないか。「そんな昔のものから読んで行ったらキリがないよ」

ともあれ、東京中央郵便局の古い建物を大切にするようなつもりで、古い夏目漱石の小説も大切にしようよと、個人的な直感としては思う。

いやそれ以上に、みんなが漱石を読まなくなってしまったら、仮に日本社会がまったく困らないとしても、私が困る! せっかく読んだ『三四郎』について『こゝろ』について誰とも話ができなくなったら、寂しすぎるじゃないか。どんどんブログにも書いていくつもりなのに。


 *


『道草』から、以下少しだけ引用


ちょっと笑ったところ =五十七章=

健三の心は紙屑(かみくず)を丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪(かんしゃく)の電流を何かの機会に応じて外(ほか)へ洩(も)らさなければ苦しくって居堪(いたた)まれなくなった。彼は子供が母に強請(せび)って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛(けと)ばして見たりした。赤ちゃけた素焼(すやき)の鉢が彼の思い通りにがらがらと破(われ)るのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷(むご)たらしく摧(くだ)かれたその花と茎の憐(あわ)れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢(はか)ない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉(うれ)しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。


ネット中毒ひきこもり、将来への空虚と焦燥、的な共感 =六十七章=

 その頃の健三は宅(うち)へ帰ると甚しい倦怠(けんたい)を感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寐(ひるね)をした。机に倚(よ)って書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。愕然(がくぜん)として仮寐(うたたね)の夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃(しげき)した。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。括(くく)り付けられた人のように書斎に凝(じっ)としていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と坐(すわ)っていろと彼に命令するのである。


・役に立つ人間が偉いのかと妻と口論する、役に立たない男 =九十二章=

 細君は健三に向っていった。――
「貴夫(あなた)に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
 健三の心はこうした諷刺(ふうし)を笑って受けるほど落付(おちつ)いていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益(ますます)窮屈にした。
「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好(い)いと思っているんだろう」
「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」
 生憎(あいにく)細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質(たち)であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
 彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手(ふところで)をしたなり澄ましていた。行李(こうり)一つ絡(から)げるにさえ、彼は細紐(ほそびき)をどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」
 動かない彼は、傍(はた)のものの眼に、如何(いか)にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益(ますます)反対の方面に移して行った。


おまえは何をしに世の中に生まれて来たのだ? =九十七章=

 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟(ひっきょう)何をしに世の中に生れて来たのだ」
 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
 その声は忽(たちま)ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所(そこ)へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」
「己(おれ)のせいじゃない。己のせいじゃない」
 健三は逃げるようにずんずん歩いた。


・こんな文句が流行っていたのか、当時。ちょっとびっくり =二十六章=

来たか長さん待ってたほい


・しばしば引用されるラスト直前の一節

世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。