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【2019 輪廻転生】

映画はおそろしい/黒沢清


黒沢清の映画の感想はなかなか整理、説明しがたいのだが、それと対照的に、この本で黒沢清は映画というものについてきわめて平易に率直に語っている。だからその感想なら一言で説明できる。黒沢清はこう言いたいのだ、「映画をそんな決まりきったやり方だけで作るなよ、見るなよ」と。

その最強の主張は書き下ろしの終章として示されている。いわく「映画は人間のドラマを描くためにだけあるのではない」。

古今東西いろいろな映画の中で、画面に登場する頻度が最も高かったのは多分人間であろう。なぜかと言うと、まず人間はそのへんにごろごろいる、だから安上がりだ、それから言うこともよく聞く、といった理由が挙げられる。動物や自然だとこうはいかないし、建物や機械なども撮影のためにそれがある場所に行くのは面倒くさい。人間なら呼べば来てくれるのである》。

ところが、《それだけのことなのに、いつのまにか映画は人間を描くメディアだと言われ始めた。そして、そうでなければ映画でないとさえ主張する人までいる。これはどうしたことか。映画は最初はそんな使命など背負わされていなかったはずなのに

今どきどんなメディアだって普通人間を描こうとするだろう、と早合点しないでもらいたい。少なくとも、映画は全然そうじゃないのだ。映画には照明もあり美術もあり衣装もあり風景もありカメラワークもありサイズ、ピント、露出……たった1カット撮るだけでこんなにもいろいろな人間ならざる要素を相手にしている

こうした疑惑から始まった考察は、世界と日本の具体的な映画史に絡んで複雑な展開をするが、その論旨は明快だ。そして以下のマニフェストへと至る。

こんにち、日本映画は人間ドラマといういっときの不変を手に入れて、世界に躍進している。すごいことだと思う。そのためにいくつかの要素が犠牲になったとしても、それはそれで仕方あるまい。しかし映画にかかわる限り、何人も「映画とは何か」という問いから逃れることはできない。それは深い映画的教養から発せられるもののことではなく、あくまでも現在という切迫した事情から止むに止まれず発せられる悲鳴のことである。映画が不変な何かを獲得したことなど未だかつて一度もなく、多分今後もないだろう。だから、人間ドラマなるものも、つまりは現在という逃げられない宿命が土壇場で提示した選択肢のひとつであるとみるほうが正しい。(略)。映画は、いつの時代も不変を夢見ながら、一歩たりともそれに接近したことなどなく、それをもって唯一の映画の特性であると私は考える。
 ならば私は、やはりあらゆる歴史から切り離された現在この時の「いかがわしさ」と「出鱈目さ」を積極的に受け入れようと思う。人間ドラマ、恋愛、政治、要するに何でもいいのだ。デジタルであろうがアナログであろうが構いはしない。それをことさら有り難がりもせず恐れもせず、時間ある限り撮れる範囲のものを撮る。おそらくそれは、作家性の否定ということになるのだろうが、実は私はそれでほっと胸を撫で下ろすのだ。作家……ああ何と言う不変の匂い立ち込めるまぼろしのような存在。だって、もう一度言うが、私は絶対に上等の人間ではなく、無教養で通俗的で、およそ作家とは程遠いキャラクターであることがはっきりしている。どっこい映画は、そのような者にも撮ることができる、ということを証明するために私は撮る。それ以外にない

映画につい人間ドラマを求めてしまうのは、映画の側ではなく人間の側にしか原因がない、といったことになるだろうか。しかし、映画が成立する条件や工程そのものにも、自ずと人間ドラマを志向させる誘因がまったくないわけでもないようにおもう。(むしろ、その自然的な志向への抵抗こそが映画製作だ、という主張なのかもしれないが) 


ほかもう少し引用。


「映画のある場所」p.60〜

夕陽でも海でもよい。8ミリ(あるいはビデオ)カメラをいじり出してごく初期に誰も体験するのは、撮影されたそれらのモノが決して美しくはないという事実だ》《目はまったくもって正確にモノを見ていないということと、カメラは悪魔のごとく冷徹にモノを写しとるということが同時に確認されたわけである

さて次に、そうやって撮影された退屈な夕陽や海のフィルムに、何でもいいお気に入りの本からの引用なんぞをナレーションで添えてみる。とたん、夕陽や海は喩えようもない感動をもって目の前に映し出される

では映画なるものの正体とは? 《それは、おそらくこの第一段階と第二段階の中間のどこかにあるのだ。決して映像の上には現れないが、かと言って目を閉じているかぎり絶対に成立することのな何か、僕たちが求めているのはそれだ


「NOと言える映像」p.66〜

ジョージ・ブッシュのテレビ映像を題材に 《印象は、その裏に秘められた真実といったものと無縁である。/印象は、おぼろげで、うつろいやすく、とことん個人的な感受性をもってしてもみ、とらえられる。が故に、その当人にとっては絶対的である

今日、印象とは映像のことだと言ってよい。映像は、おぼろげで、うつろいやすく、とことん個人的な感受性をもってしかとらえられなかったはずの印象を、固定し、画一化し、文法に沿って並べ換え、消費社会の中に組み入れ、一般化する

映像によってがんじがらめに統制されている限り、印象の自由などあるはずもなかった。だから、もうそろそろNOという声が聞こえてきてもおかしくはない。映像に対してNOと言おう。しかし、その声はいったいどこから聞こえてくるのだろうか。そして、NOと言える映像とは、いったいどんな映像なんでしょうかねェ……


映画の暴力を知る者 青山真治『Helpless』」 P.149〜

Helplessは深い人間ドラマだ。しかしそれは、愛、憎悪、裏切りといったテーマということではない。《"愛"や"憎悪"は、いわば人間の心理のドラマにすぎないのであって、心理そのものを絶対に写すことのできない宿命の映画は、逆に、肉体に関しては本物と見まがうばかりに描写することができるという特性を生かして、全然別のテーマに向かう。それがつまり暴力だ。テーマとしての暴力は、迫力であるとか痛快であるとかいった修辞すら拒み、あくまで、人間が同じ人間に向けて仕掛ける肉体関係として出現する。青山真治の展開する人間ドラマとはそういったものだ》(作品評としての山はこの後に書かれている)


短文の寄せ集めがほとんどの1冊だが、映画についてもっともらしく書かれたいかなる本にも無いような視点をさっと教えてくれる。そして、私たちでも映画について愚直に考えをめぐらすかぎりどうしてもそう結論せざるをえないなと気づきつつあるところを、ちゃんと照らしてくれている。自分の映画の見方は正しいかどうかは分からないが少なくとも大間違いではない、と励まされているようにも感じる。映画に対して、まずは正直であればよい、冷静であればよい、のかもしれない。


◎映画はおそろしい/黒沢清 asin:4791758706