村上春樹に賞を授けたからといって、
それだけでイスラエルが好きになったりはしないように、
イスラエルから賞を受けたからといって、
それだけで村上春樹が嫌いになったりはしない。
これだけ長いつきあいの作家は他にはあまりいないのだから、
「好き」とか「嫌い」とか言う資格くらいはあるだろう。
なにが「正しい」のか「間違っている」のかとなると、
それはなかなか分からない。
それでも、
村上春樹と私はきっと同じ側に立っているのだと
まずは考えてみたい。
◎共同通信(英語全文・講演要旨・日本語訳全文)
http://www.47news.jp/47topics/e/93880.php
◎Haaretz.com
「Always on the side of the egg」By Haruki Murakami
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
その全訳「常に卵の側に」by "増田"
http://anond.hatelabo.jp/20090218005155
***
(追加2.28)=友人へのメールとして書いたもの=
パレスチナ問題を「小学校の暴力教師集団とそれに耐えかねている小学生」というふうに喩えればいいのだろうか?
イスラエルがしていることはその程度の比喩ではとても足りないのだろうが、その程度の比喩であっても、そんな小学校の校長からなにかの表彰状を受け取るというのはやめたほうがいいとは感じられる。
*
それはそれとして、2つの疑問がある。
1つは、エルサレム賞を受賞することが、イスラエルのパレスチナへの殺戮や暴力に荷担することやそれを黙認することを、そのまま意味するのか、ということ。靖国神社に参拝することが日本の侵略戦争を肯定することをそのまま意味するのか、ということに似ているか。
もう1つは、ハマスをはじめとするパレスチナ側の行動を「暴力である」として非難すべきではまったくないのか、ということ。
そして、上の2つのような問いにいつも悩んで答がなかなか出せない人にとっては、村上春樹がわざわざイスラエルに行ったのを知って、そして村上春樹が語ったというあのスピーチを読んで、べつにこのまま悩み続けてもよいのかもしれない、いやむしろ悩み続けたほうがよいのかもしれない、と勇気づけられたのではないか。
そのような複雑な勇気をもたらしてくれる存在というのはなかなかいないのだ、きっと。(そこはやっぱり作家の、言葉の、役割なんだろう)
もし、村上春樹が単にイスラエルに行かず賞をもらわないという方法を選んだら、そのような問いや悩みは、もっと大きな声や議論のなかで消えてしまったように思う。
そして、そのようにデリケートな問いや悩みこそが「卵」であり、そうした問いや悩みを遮って潰してしまうものもまた「壁」である、と言うべきだろう。
*
……といっても、それでもさらに少し思う。
そうしたデリケートな問いや悩みなんかとりあえず黙らせてもいいから、賞をもらいに行かず、代わりにイスラエルを非難する声明を出す(もしくは今回のスピーチと同じくらい深読みのできる声明を出す)という行動を村上春樹が選んだ場合のほうが、パレスチナで今後殺される人の数は短期的ではあっても実質的に減るのかな、と。
*
ともあれ、私は村上春樹は十分に読んでいるので、村上春樹の言論に対しては個人的な判断をしていいと思っている。でも、パレスチナ問題については十分知っているとはとても言えないので、その重大さがよく分からず、その是非もやっぱりまだ分からないのだと思う。
そして今回の一件は、政治的な立場や思想がどうなのかには関係なく、その言葉が胸に響くかどうか、どの言葉なら信用できると感じられるのか、ということにかかってくる。(パレスチナ寄りの言葉はすべて正しくて、イスラエル寄りの言葉はすべて間違い、というふうには、やっぱりならない)