東京永久観光

【2019 輪廻転生】

アーキテクチャと思考の場所


公開シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」を聴きに行った。

http://www.cswc.jp/lecture/lecture.php?id=60

こちらのブログでおおよそが分かる。→http://d.hatena.ne.jp/tarenagashi/20090128#p1


浅田彰にがっかり

東浩紀が提示する「アーキテクチャ」という問題に、さて浅田彰はどう応じるのだろう。私はそこに最大の関心があった。ところが、濱野智史宇野常寛のプレゼンテーションのあとに順番が回ってきた浅田彰は、いきなり、今回の趣旨が私は分からないと発言した。濱田と宇野の発表についても彼らの仕事を知らないのでじつは文脈が分からないと言う。がっかり。

さらに浅田は、自身が大学に入学した1970年代を振り返りながら「基本問題は何も変わっていない」、だから今日のテーマや発表には「驚きがないのが正直なところ」と断じる。どうやら本当にそう思って戸惑っている。レッシグの『CODE(コード)』など読んでいないのだろうか? 失望を通り越してショックだった。

とはいえ、この問題をめぐる有名識者の討論をみるのは少なくとも私は初めてだったので、わずかでもここで知らされたことや深められたことは、きわめて貴重な収穫だと感じられる。


2ちゃんねるに公共性をみる
その一つは、2ちゃんねるニコニコ動画および西村ひろゆきという、いわば卑近な具体例が挙げられ、そこに「ネット時代に公共性はいかにして浮上するか」という問いへの答えが示唆されたこと。西村ひろゆきほど、不真面目である(にみえる)にもかかわらず影響力の大きい人はいない、と東はみる。その事実が示すのは、インターネットにおいては、個々がただ面白いとおもって始めたサービスこそが、なぜかやがて公共性を担うようになって普及するという事実。グーグルやユーチューブだってべつに世界全体の公共部門たるべしと最初から意図して設計されたわけでもない。そうして東は「全体性の認識をもたなくても公共性のあるものは出てきているじゃないか」と主張するのだ。

とはいえ、東はこれを楽観視しているだけではない。楽しいことをやればそれが公共的になる。しかしこれには悪影響もある。公共的なことをやろうとしても何をやればいいのか分からなくなってしまう。そうした問題が残ってしまう。…といったこと。この逡巡は、昨年かなり反響をよんだ南京大虐殺をめぐるつぶやきにもつながると思われる。

(参考:東は大塚英志との対談本『リアルのゆくえ』で以下のようなやりとりをしている

東「ちなみにぼくは南京大虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それは僕からすれば誤解としかいいようがない」
大塚「南京大虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたはそのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?」
東「そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから」
大塚「でも、それを言いだしたら何も言えなくなる。柳田國男について発言するのは柳田國男以外ではできなくなってしまう。歴史学自体がすべて成立しなくなってしまう。(略)とにかく東浩紀というのは、結局人は何も分からないと言っているようにしか聞こえないよ」
東「ある意味でそのとおりです」
大塚「君が批評家であり知識人であり、言論人である、という事実は客観的な事実としてある。でも、なぜそこで、君はスルーしちゃうようなものの言い方をするのか。つまり君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくはずっと聞こえるんだよね。」
東「ええ、それは、そういうふうにぼくはよくは言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います」
大塚「そうやって居直られても困るんだって」 参考終わり)

なお、上の東の指摘を受け、濱野は、日本において公共性を育てるにはネタ的なセンスが不可欠になるのではないか、といった興味深いことを述べていた。


●無限のログと有限の身体(といった話)

2ちゃんねると公共性という指摘のほかに、もう一つ重要だと感じられたことがある。私なりの言葉で整理すると、人間は身体をもつ存在であり空間や時間といった物理的条件も課されるため、あらゆる情報やコミュニケーションは最終的には制限されざるをえない。しかし、インターネットのデジタル情報の流通はそうした物理的条件をかなりクリアできてしまう。デジタルな情報がデジタルな情報のまま身体的物理的な次元に降りてこなくても成立してしまうようなところがある。…といったこと。

これに絡んで、インターネットの情報流通では「すべてログをとっておく」という、過去のメディアにはありえなかった習慣が一般的になっている事実を、東は指摘した。これがいかなる変化に通じるのか私はまだよく分からないが、ともあれなんだかとても凄い時代になってしまっている。そのことに我々はもっと驚愕しなければならないのではないか。

これとは裏腹な関連になるが、さらに濱野がへえと思うことを指摘した。これまでユビキタスが実現したのはせいぜいRFIDや携帯電話くらいだったが、これからはiPhoneにみられるように多数のネットサービスがユビキタス化していくだろう、というのだ。そうなると、ウェブのアーキテクチャーも、これまではCODE設計のみがプラットフォームを決定づけてしまっていたが、これからはユビキタスゆえの身体的な制限が強まらざるをえない。しかしそれはむしろ人間の側がアーキテクチャーに介入できるチャンスでもある、といった期待を込めた指摘なのだろう。


●今回のシンポのパフォーマティヴな部分

東浩紀によれば、今回の討論は、1999年1月に紀伊国屋ホールで行われた『批評空間』シンポジウムのリターンマッチ的な意味合いもあったという。そのことにおいて今回の東はじつはひとえに公共的な場を作りだそうとしていたと思う。しかし図らずも、「浅田彰vs東浩紀」戦はちょっとしたプロレス的な盛り上がりが主になってしまった。思想界のチャンピオンベルトがこの夜いったいどちらの手に渡ったのか(そもそもどちらが保持していたのかも)、難しいところだ。


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(その後:2014年) 浅田彰、「やっぱり永久チャンピオン」感あり! http://live.nicovideo.jp/watch/lv166863981