東京永久観光

【2019 輪廻転生】

夜も更けてまいりました



クーリエジャポンという雑誌をたまに買う。海外情報に加え世界が報じた日本の記事というのが売りなのだが、今回はなぜかポール・オースターの短い小説を作家本人が朗読しているCDが付いていた。

オースターの声は誌面の写真にぴったりで、渋い。かつて読んだ小説はたしか一人称の「ぼく」が似合う青春ぽいところがあったと記憶するが、それでもむしろこうした落ち着いた語りとして読んでいたような気もする。

他に沢木耕太郎小川洋子、そして翻訳の柴田元幸がそれぞれオースターの作品を日本語で読んでいる。「人のイメージは声とどれくらい一致するのか」という問いが浮かんでくる。ともあれ柴田氏の声は一生懸命だ。ひとつの言葉や文章に込められたものをしっかり伝えようとしているかのよう。オースター小説を柴田訳で読むときは、さてどちらの声を想定するのがふさわしいのだろう。

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台所にテレビがなく、それで最近ふと思いつき、しまってあったラジオをひっぱり出して活用している。

FMなどの音楽番組だと、聞こえているという自覚もなく流れてしまうので、何を聴くかというと、放送大学

Yahooのテレビ番組表で何を見ようかと探していて、あれこんな面白いタイトルの番組やってる! とおもうと放送大学の講座だったりする。そんなことがしばしば。でもアンテナがなくて視聴できない。ところが、放送大学はラジオ(FM)でも聴けるという。それを知って周波数を合わせてみたのだ。

このあいだは、夜中に講師が「きょうは分析心理学のお話をします」という。何だろうとおもうとユングの心理学をそう呼ぶらしい。友達の愛人が住むという家を、私が訪ねて行ったのですが、玄関から大きな牛が出てきたので、中に入れませんでした。とかなんとかいう誰かの夢とそれをめぐる解釈例などについて、講師は淡々としゃべる。もともと興味のない話であっても、それだけがシンプルに丁寧に語られると意外に引き込まれるものだ。けっきょく私はどうも勉強というものが無性に好きなのかとも思う。学生時代とは正反対に。

ちなみにこのラジオは、10年以上前、ユーラシア旅行のために買ったもの。当時はネットカフェなども普及せず、日本のニュースを知るにはノイズだらけのNHK国際放送を聞くしかなかった。

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iPod Shuffle。もはや古い型式でこれまた今さらと思いながら、久しぶりに散歩や通勤のときに使うことにした。そうしたらやっぱり世界は音楽によって変わる。

たとえば環状6号線なんて道路のあちこちが工事中でじつに殺風景なのだが、音楽があれば、夜に歩いても映画のようだ。だいぶ前にまとめて入れておいたmy favorite song ばかりが続くので、ほぼ永遠に飽きない。疲れて帰宅するとき、山崎まさよしが「おうちへ、かえろお〜お〜〜」と歌っていた。テレビで宇多田ヒカルがその真似をして歌っていたのを思い出した。

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日記も、書くかわりに、話したらどうだろう。声のブログだ。そういうことをときどき考える。

書いた文字や文章はすぐ読めるのですぐ直したくなり、パソコンだと実際すぐ直せるからキリがなくなる、ということを先日述べた。ところが、しゃべった声というのは消したりつなぎかえたりがその場ではできないから、しゃべるというその一連の行為をただ続けるなかで訂正したり整理したりすることになる。そっちのほうが、文章を書き直して仕上げるのに比べたら、むしろ面倒でなくて気も楽なように思うのだ。

「そんなものを誰が聴くか!」 そうかもしれない。しかし我々はすでに「そんなものを誰が読むか!」というものを毎夜読んでいる気もする。

他人のブログを読むか読まないかの選択は、書いてある内容にもよるが、書いている文体みたいなものにもよる。そこにはその人の性格や思想が必ず反映されると信じることもできる。では、耳で聴くブログはどうなるのだろう。その人がどんな声なのか、どんな話し方なのか、そうしたことの好き嫌いが大きく影響するのだろうか。たまに歌ったりしたら嫌がられるのだろうか。しかし考えてみれば、シンガーソングライターが一曲作って聴かせるというのは、まさに声のブログに近いのかもしれない。

ただし、しゃべっている様子というのは自分自身で客観的に把握するのが案外難しい。そこは文章と違うところ。自分の声を録音して聞いたときの違和感と落胆。その質を自分で調整するというのも、文章でも簡単ではないが、音声だともっとできないだろう。

また、書かれたブログなら全体をささっと眺めることができるが、話されたブログであればそうしたこともまた難しい。文章はたいてい読むほうが書くよりは短時間ですむ。しかし談話というのは、話すのにかかったのと同一の時間を、聴く人も費やさなければならない。


声のブログは速度をあげて聴くという方法は考えられる。ライフハック的にはそのほうがいい。しかしiPodのmy favorite songs を早送りしながら聴きたいとは思わない。ポール・オースターの朗読はどうか。もっと甲高い声でいいから早く聴き終えるほうが得? わからない。

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聴覚は「ながら聞き」ということができる。散歩しながら耳だけは別のことができる。車や街のノイズが混じっても音楽を楽しめる。しかし視覚はそれは不可能だ。目が本のページやDVDのモニターに奪われたまま環状6号線を歩くのは危険だ。(最近は、コンタクトレンズみたいなものになんらかの視覚情報をのせて見させるといった技術が開発されているとは聞くが)

聴覚と視覚でなぜこうした差がでるのだろうと考える。

ひとつ思うのは、我々はやっぱり視覚を優位にして生活しているからだろうか。つまり、耳はふだんあまりきちんとした仕事がなくて遊んでいると。(それはしかし自覚的もしくは意識的な情報処理の部分にかぎってかもしれない。たとえば嗅覚などはふだんあまり意識しないが重要な情報処理を常にしているとも聞く)

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もうひとつ。

視覚の場合、ある程度の長さの文字や文章も含めて、一挙に眺められるのに対し、聴覚の場合は時間の流れとともに把握するしかない、というのは絶対に覆らないのだろうか。

聴覚をもっと鍛えたら、もっとすごいことができる、ということはないのだろうか。

たとえば、「はてな」という音声は、ふつう「は」「て」「な」と順々に発音しないと聞き取れない。しかし、3音が同時に耳に入っても「はてな」と分かるようになったら便利ではないか。「はて」や「はてぶ」との違いも聞き分けられたら便利ではないか。

音楽の和音とは、まさにそういうことをやっているようにも思う。つまり「ド」と「ミ」と「ソ」の音を順々にではなく同時に聞いても、それがハ長調の基本和音であることを人間の耳は理解する。「ドミソ」が「ラドミ」と異なることや、「ドミソ」が「ドミソシ」(Cmaj7)に変わったときの微妙かつ明瞭な違いなども、我々は瞬時に把握できる。

こうしたことには、地球の環境と生物の能力や進化とが絡んでいるのだろう。そう思うと非常に興味深い。

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というわけで、朗読でも、ラジオの放送大学でも、iPodでも、耳の生活というものをこれからはもっと充実させたいものですね。

さて、今夜はこれでお別れ。最後に一曲どうぞ。

http://jp.youtube.com/watch?v=5qHkImd5GBo